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証言記録 東日本大震災

あの日、何があったのか。人々は何を考え、どう行動したのか。NHKでは、実際に被災された方々に、被災した現場に立っていただき、あの瞬間の証言を記録するプロ ジェクトを始めています。
月に一度、一つの市町村に絞って、その地で起きた被災体験を証言でつづり、将来の 防災への意識を高めていただきたいと考えています。

次回放送予定

証言記録・東日本大震災 第59回

「宮城県 仙台市」
~動物園の“いのち”を守る~

【総合】2016年12月4日(日)午前10:20から放送
※再放送 2016年12月9日(金)午後2:05から放送

「宮城県 仙台市」~動物園の“いのち”を守る~

仙台市の八木山動物公園。東日本大震災で、電気・水道・燃料、エサの供給がストップ。約500匹の動物たちは、日ごとに追い詰められていった。チンパンジーの“チャチャ”は、地震のストレスでエサを口にできず意識不明に。温水プールで飼育しているカバの“カポ”は水が不足し健康状態が悪化、飼育員は死を覚悟した。そんな動物たちの危機を救ったのは、生鮮食料品を差し入れたスーパ-などの地元の人々。そして、全国の動物園からの救援物資だった。人の保護なしには生きられない動物たちの“いのち”を救った人々の思いを証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第58回

「千葉県 浦安市」
~液状化の衝撃 水と闘った1か月~

【総合】2016年11月20日(日)午前10:05から放送
※再放送 2016年11月25日(金)午後2:05から放送

「千葉県 浦安市」~液状化の衝撃 水と闘った1か月~

市の3分の2を埋め立て地が占める千葉県浦安市は世界最大級の液状化に見舞われた。大量の泥が噴出、道路は割れ、家は傾き、無残な姿に豹変したベイエリアの住宅街。だが、最も深刻な被害は、地下のいたる所で破壊された上下水道だった。約1万世帯が断水ばかりか、トイレも使えない日々を耐え忍んだ。浦安市は市民の動揺を押さえようと1か月内の復旧を宣言。その成否は、自衛隊の給水船派遣と前代未聞の復旧工事に挑んだ延べ2千人に及ぶ下水道のプロたちにかかっていた。そして、再液状化を防ぐ地盤改良工事をめぐって今も重荷を背負う人々。知られざる液状化被害の真相を証言でつづる。

液状化についてもっと詳しく

証言記録・東日本大震災 第57回

「福島県 須賀川市」
~放射能の不安と闘った病院~

【総合】2016年10月30日(日)午前10:05から放送
※再放送 2016年11月4日(金)午後2:05から放送

「福島県 須賀川市」~放射能の不安と闘った病院~

須賀川市は、福島県の内陸部で最も強い揺れに襲われたが、東京電力福島第一原発からは60キロ離れていたため、原発事故による避難指示は出されなかった。しかし住民たちは大きな不安に襲われた。「本当に安全なのか」「やはり避難すべきではないか」。
そこに、長年地元の医療を担ってきた病院が動き出した。
院長の三浦さんはラジオ局を開設、現況と放射能汚染の知識を発信し始める。しかし、どんな情報を伝えれば良いのかは手探り状態だった。
放射能の不安を解消しようと闘った病院の試行錯誤、スタッフの葛藤を証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第56回

「宮城県 東松島市」
~二本の列車 明暗を分けた停止位置~

【総合】2016年9月25日(日)午前10:20から放送
※再放送 2016年9月30日(金)午後2:05から放送

「宮城県 東松島市」~二本の列車 明暗を分けた停止位置~

2011年3月11日の午後2時46分、宮城県東松島市のJR仙石線野蒜駅を上下2本の列車が同時に出発した。上り列車は仙台方面、下り列車は石巻方面へ。その直後、とてつもない揺れに襲われ緊急停止した2本の列車。指令室からは「指定避難所の野蒜小学校に避難せよ」という命が下った。指令室の指示通り、避難所の体育館に乗客を誘導した上り列車。一方、高台に停車した下り列車は乗客の助言に従い、車内にとどまる決断をする。指示に従うべきか、車内にとどまるべきか、異なる判断を下した2本の列車。乗客150人の命を守ることができたのか。そして乗務員にとって震災の教訓とは。

証言記録・東日本大震災 第55回

「岩手県 大槌町」
~行政機能を失った町役場~

【総合】2016年8月28日(日)午前10:05から放送
※再放送 2016年9月2日(金)午後2:05から放送

「岩手県 大槌町」~行政機能を失った町役場~

東日本大震災で1277人の死者・行方不明者を出した大槌町。町役場も津波に飲まれ、140人の職員のうち、およそ3割が犠牲になった。町長と幹部、役場庁舎を一度に失った大槌町は、機能不全に陥った。助かった職員たちは、家族や同僚を失った悲しみを和らげる余裕もなく、救援物資の受け入れ、避難所の運営などに奔走した。しかし人手不足は深刻で、被災した住民へのサービスも停滞。職員たちは、精神的にも追いつめられていった。災害対応の要となるべき町役場が被災した時、どんな困難に見舞われたのか、生き残った大槌町職員の証言で見つめる。

大槌町についてもっと詳しく

証言記録・東日本大震災 第54回

「福島県 南相馬市」
~原発バス避難 試練の2週間~

【総合】2016年7月17日(日)午前10:05から放送
※再放送 2016年7月22日(金)午後2:05から放送

「福島県 南相馬市」~原発バス避難 試練の2週間~

東京電力福島第一原発の事故直後、住民避難に大きな役割を果たしたのが民間バス会社だ。しかし、当時の防災計画では、バスでの避難は全くの想定外だった。避難指示が出た大熊町の住民は、国土交通省が緊急手配したバスでいち早く避難したが、相次ぐ原発の爆発で事態は急変した。屋内退避の指示が出た南相馬市では、外部との交通が遮断され多数の住民が孤立。被ばくの不安が高まるなか、市長の懸命の要請を受けた中小のバス会社が、地元への恩返しにと、手探りで市民の脱出に奔走した。バスが果たした知られざる役割を証言でつづる。

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証言記録・東日本大震災 第53回

「ピアノよ 被災地へ届け」

【総合】2016年6月5日(日)午前10:05から放送
※再放送 2016年6月10日(金)午後2:05から放送

「ピアノよ 被災地へ届け」

東日本大震災では多くの被災者が、かけがえのないピアノを失い心に傷を負った。東北の音楽関係者が立ち上げた「被災地へピアノをとどける会」では、全国の家庭からピアノを寄贈してもらい、最高の状態に調律。ピアノを失った被災者に無償で提供している。
これまでに贈ったピアノは約500台。震災で心の病に陥った人や、ピアノが壊れ音楽の道を諦めかけていた若者など、多くの被災者たちの再出発のきっかけになっている。
ピアノは、どのように被災者たちを癒やし、音楽のある日常を取り戻していったのか。ピアノを通した心の復興を追う。

証言記録・東日本大震災 第52回

「宮城県 石巻市」
~3000枚の命のカード~

【総合】2016年5月1日(日)午前10:05から放送
※再放送 2016年5月6日(金)午後2:05から放送

「宮城県 石巻市」~3000枚の命のカード~

地震による停電ののち、市中心部が津波で水没した宮城県石巻市。人々が情報を得、発信する手段はラジオだけだった。地域FM局ラジオ石巻は、連絡が取れなくなった近親者を捜す3000枚の「安否カード」を伝え続ける。津波と火災から子供たちを守った保育所長は、引き取り手のない子の親をカードで捜し続けた。水没地帯を進んで自宅にたどり着いても家族を発見できなかった父親は、妻と娘を捜して「わらにもすがる思い」でカードを出した。津波の直前に自宅に戻った夫を止められなかった事を悔やむ妻は、がれきと焼け跡の中で夫を捜し続けたのち、カードでラジオに願いを託した。「命のカード」を通して愛する者の命あることを願い続けた人々と、その願いに応えて奮闘したラジオ局の姿に迫る。

証言記録・東日本大震災 第51回

「宮城県 石巻市」
~復興の煙をあげろ!
  製紙工場の挑戦~

【総合】2016年2月28日(日)午前10:05から放送
※再放送 2016年3月1日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「宮城県 石巻市」~復興の煙をあげろ! 製紙工場の挑戦~

津波で多くの犠牲者を出した宮城県石巻市。
町には、一際目立つ大きな煙突がそびえる製紙工場がある。従業員の8割ちかくが地元の人々で、工場は、石巻を支えてきた。
その工場が、震災で甚大な被害を受けた。しかし、工場長は「半年で1台の抄紙機をまわす」という無謀な決断を部下に伝えた。
終わりのないガレキの撤去作業を続け、何千本もの切断された電気ケーブルをつなぎ、従業員たちは、壊滅状態だった設備を次々と復旧させていった。工場を復活させることで、震災で傷ついた町をよみがえらせようとした男たちの証言。

証言記録・東日本大震災 第50回

「福島県 浪江町」
~放射能と闘った消防士たち~

【総合】2016年2月21日(日)午前10:05から放送
※再放送 2016年2月23日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「福島県 浪江町」~放射能と闘った消防士たち~

福島県浪江町の「双葉消防本部」は福島第一原発の周辺地域を管轄していた。1号機建屋が水素爆発した翌日の2011年3月13日、3号機にもメルトダウンの危機が迫り、東電からの冷却水供給の要請にこたえて出動。3号機建屋が爆発した後も、けが人の搬送や原発火災の消火のために繰り返し出動した。本格的な冷却体制が整うまでの6日間、放射能汚染の恐怖と闘いながら、原発事故の収束に奔走した隊員たちの知られざる活動を証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第49回

「岩手県 釜石市」
~土葬か火葬か 安らかに送りたい~

【総合】2016年1月31日(日)午前10:05から放送
※再放送 2016年2月2日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「岩手県 釜石市」~土葬か火葬か 安らかに送りたい~

岩手県の釜石市では震災から9日後の3月20日、市長が遺体の土葬を始めることを発表した。800人を超える死者が出た釜石市では火葬がまったく追いつかず、安置所の遺体の傷み具合が放っておけないレベルに達していた。
しかし、土葬は恒久的なものではなく、時間をおいて掘り起こし、あらためて火葬を行うという計画であった。掘り起こした時に傷みが進んだ遺体と対面することは遺族を無用に傷つけるという反対の声があがり、釜石市では火葬に協力してくれる市町村を探し始める。
大災害によって多くの犠牲者が出た時、市や町はどのように死者を弔ったらよいのか。実際に土葬を行なった宮城県石巻市の事例をまじえながら、釜石市が土葬を決断し、その後回避するまでの葛藤を証言で明らかにしていく。

釜石市についてもっと詳しく

証言記録・東日本大震災 第48回

「福島県 飯舘村」
~廃業か継続か 牛飼いの決断~

【総合】2015年12月13日(日)午前10:05から放送
※再放送 2015年12月15日(火)午前1:40(月曜深夜)から放送

「福島県 飯舘村」~廃業か継続か 牛飼いの決断~

福島県飯舘村では、220戸あまりの畜産農家が、2,300頭もの肉牛を飼育していた。ブランドの“飯舘牛”は、村の主産業だった。しかし、福島第一原発の事故から1か月後の4月11日、飯舘村は全村避難を余儀なくされる。畜産農家は、牛を手放し廃業するか、牛と共に避難するか、厳しい選択を迫られた。避難期限の目安は5月いっぱい。畜産農家は、県内外の空き牛舎を探しまわるも、見つからなかった。一方で、高まる風評。牛か家族か、どちらを守るか迫られた畜産農家。徐々に廃業へと追い詰められていった。そんな中、飯舘牛を守ろうと懸命に行動した畜産農家や農協職員もいる。番組では、廃業か継続か、揺れ動く気持ちの中で、苦渋の決断に至った牛飼いたちの2か月を証言でつづる。

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証言記録・東日本大震災 第47回

「宮城県 多賀城駐屯地」
~自衛隊員 遠い家族~

【総合】2015年11月29日(日)午前10:05から放送
※再放送 2015年12月1日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「宮城県 多賀城駐屯地」~自衛隊員 遠い家族~

宮城県多賀城市に位置する陸上自衛隊多賀城駐屯地。900人あまりの「第22普通科連隊」は、隊員の多くが地元・宮城県の出身者で占める「郷土部隊」としても知られている。震災発生後、被災地で不眠不休の活動を続けた隊員たち。自宅のすぐそばまで行きながらも、家族の安否を確認することが出来なかった。一方、家族たちは津波によって孤立し、食料のない中、子どもたちを守るため必死に闘っていた。番組では、家族への思いと救助活動のはざまで揺れながら、震災に立ち向かった自衛隊員と、その家族の思いを証言でつづっていく。

多賀城市についてもっと詳しく

証言記録・東日本大震災 第46回

「岩手県大槌町吉里吉里」
~待たずに動け 自主災害対策本部~

【総合】2015年10月25日(日)午前10:05から放送
※再放送 2015年10月27日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「岩手県大槌町吉里吉里」~待たずに動け 自主災害対策本部~

岩手県沿岸部の大槌町吉里吉里地区はあの日、高さ16メートルの津波に襲われた。海辺の建物はすべて破壊され、多数の犠牲者を出した。町の中心部にあった町役場も津波に飲まれ、町長以下多くの職員が行方不明になり行政機能を失った。町の救援は期待できる状況になかった。吉里吉里地区の住民たちは、自衛隊などの救援が入るまでの5日間、自力で燃料を確保し、行方不明者の捜索や道路の啓開などを行い、整然と生き抜いた。それを可能にしたのは、震災直後に多彩な人材を集めて自主災害対策本部を立ち上げ、一致団結して大災害に立ち向かったことだった。番組では、救援を他人頼みにせず自分たちの力で住民の命を守った吉里吉里地区の自主災害対策本部の5日間を描く。

大槌町についてもっと詳しく

証言記録・東日本大震災 第45回

「福島県双葉町」
~原発事故 翻弄された外国人たち~

【総合】2015年9月27日(日)午前10:05から放送
※再放送 2015年9月29日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「福島県双葉町」~原発事故 翻弄された外国人たち~

東日本大震災と原発事故を経験した外国人は、言葉の壁が立ちはだかる中、状況をどう把握し、どのような避難行動をとったのか。彼らの母国では原発事故が、どのように報じられたのか。帰国を求める家族との間には、どのような葛藤があったのか。
福島県双葉町で外国語指導助手をつとめてきた二人のイギリス人とその友人、母国イギリスの家族の証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第44回

「宮城県石巻市」
~避難所と在宅避難者のモノ語り~

【総合】2015年8月30日(日)午前10:05から放送
※再放送 2015年9月1日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「宮城県石巻市」~避難所と在宅避難者のモノ語り~

あの日、津波に追われた石巻市民の多くが指定避難所に身を寄せたが、一方で6万人もの人々が自宅二階に避難していた。一階は水没しても二階には被害の無かった家が多かったのだ。ところが市の防災計画では、在宅避難は想定されておらず、支援のあり方も決まっていなかった。震災から数日後、避難所への物的支援が始まると、在宅避難者への分配が大きな問題になる。同じ被災者として支援を望む在宅避難者と、家を失い避難所にいる者が優先と考える人。両者の間の不公平感が高まってゆく。番組では、避難所と在宅避難者の支援をめぐる葛藤を湊小学校避難所と在宅避難者たちの証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第43回

「岩手県大槌町・陸前高田市」
~水を届けろ
  神戸市水道局の100日間~

【総合】2015年7月26日(日)午前10:05から放送 ※一部地域を除く
※再放送 2015年7月28日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「岩手県大槌町・陸前高田市」~水を届けろ 神戸市水道局の100日間~

津波で水道が壊滅的被害を受け断水が続いた岩手県大槌町と陸前高田市。いち早く駆けつけた神戸市水道局は阪神淡路大震災の教訓を生かして給水、水道復旧に力を尽くした。「情報が無いところに水を求める人がいる。」「水質がよくなくても生活用水には使える。」「支援は自給自足で行い、支援先に負担をかけてはいけない。」そんな教訓を守る支援隊に、自分たちの代わりに被災地支援に行ってくれるのだから応援したいと食事を作り続けたのは宿舎を置いた遠野市の女性たち。顔を見ること無く手紙だけでやりとりする交流は2ヶ月にわたって続いた。神戸市水道局の水支援の100日間を証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第42回

「福島県富岡町」
~原発事故 想定が崩れたとき~

【総合】2015年6月28日(日)午前10:05から放送

「福島県富岡町」~原発事故 想定が崩れたとき~

あの日、富岡町にある東電福島第二原発は津波で原子炉の冷却機能を失った。2日以内に冷却装置のモーターを交換し、800m離れた電源までケーブルを張って冷却を始めないと原子炉が破損し放射能がばらまかれかねない。懸命の復旧作業が始まるが、ケーブルもモーターも予備は無く、取り寄せた資材を積んだトラックは避難指示のため原発までたどり着けない。第一原発、第二原発に挟まれた富岡町では、事故が深刻化するなか、急きょ全町民の避難を決めるが、肝心なものが確保されていなかった。原発事故の想定が崩れたとき、何を考え何をしたか、第二原発幹部と富岡町の人々の証言記録。

証言記録・東日本大震災 第41回

「宮城県石巻市雄勝町」
~子どもたちを守れ
  決死の救援要請~

【総合】2015年5月31日(日)午前10:20から放送
※再放送 2015年6月2日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「宮城県石巻市雄勝町」~子どもたちを守れ 決死の救援要請~

宮城県石巻市東北部、雄勝湾と山に囲まれた雄勝町。あの日、巨大津波で平地は完全に水没した。危ういところで山の上の清掃工場に避難した雄勝小学校の児童と教員は、段ボールで寒さをしのぎ、飲まず食わずで一夜を過ごす。救援を求めたいが、電話はつながらず、町の外に通じる道路も通行不能。やむなく教員たちは使われなくなった旧道で山を越えるが、その先も津波で堤防が決壊し海のようになっていた。一方、町の外から雄勝町に向かって、冬期閉鎖された峠道を懸命に開く町民たちもいた。孤立した子どもたちと町を救おうと、命がけで救援要請を行った教員と町の人々の証言記録。

証言記録・東日本大震災 第40回

「岩手県陸前高田市」
~“いのちの情報”を届けろ
  広報臨時号~

【総合】2015年4月26日(日)午前10:05から放送
※再放送 2015年4月28日(火)午前2:00(月曜深夜)から放送

「岩手県陸前高田市」~“いのちの情報”を届けろ 広報臨時号~

津波で甚大な被害を受けた陸前高田市。市民たちが苦しんだのは深刻な情報不足だった。家族の安否は?食料やガソリンや薬はどこで手に入る?情報提供を期待された市役所も被災したため情報発信できない。震災から一週間、市はA4 1枚に情報を書き込んだ広報臨時号を発刊、市民から問い合わせが多い情報を中心に7ヶ月にわたって発行し続けた。それは先行きの見えない中で打ちひしがれる市民たちに一歩前に踏み出す希望を与えるものとなった。番組では、普段は見過ごされがちな自治体広報が震災時に大きな役割を果たした物語を、自らも被災して家や家族を失った市職員や市民の証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第39回

「福島県郡山市」
~ガソリン不足を救え!
  臨時石油列車~

【総合】2015年3月15日(日)午前10:05から放送

「福島県郡山市」~ガソリン不足を救え!臨時石油列車~

震災直後、東北一帯は激しいガソリン不足に見舞われる。特に福島県では、原発事故も相まって深刻な事態となっていた。そこで被害の少ない日本海側を回って鉄道で石油を郡山まで運ぶ案が浮上。普段は貨物輸送を行っていない磐越西線を旧式の大型ディーゼル機関車にタンク車を引かせて運ぶことになった。担当する機関士は定年直前のベテランや旧式機関車に経験の無い若手ら。5日間の特訓でノウハウを叩き込む。保線担当は80箇所近い線路の修復を4日間で完了した。ようやく出発した一番列車。しかし、雪の急坂で立ち往生。それを救ったのは・・・。関係者たちの証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第38回

「宮城県女川町」
~「巨大防潮堤は要らない」
  決断のわけ~

【総合】2015年2月22日(日)午前10:05から放送

「宮城県女川町」~「巨大防潮堤は要らない」決断のわけ~

東日本大震災で住民の1割近くが犠牲となった宮城県女川町。震災直後、住民の間から巨大な防潮堤を作って海と町を遮断しようという案が出てくる。「海なんて敵だ!」悲惨な体験に基づく思いがこもった案。その一方で、津波を体験したからこそ、人工の巨大な壁の効果や海が見えなくなることに疑問を持つ人々もおり、町当局は巨大防潮堤建造より住宅の高台移転をすすめようとしていた。やがて明らかになった巨大防潮堤案の大問題。番組では巨大防潮堤なしの復興方針が決まってゆくまでを女川町の人々の証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第37回

「岩手県大船渡市」
~ガレキの山 命をつなぐ道をひらく~

【総合】2015年1月31日(土)午後5:00から放送

      ※近畿地方・四国地方では別番組

「岩手県大船渡市」~ガレキの山 命をつなぐ道をひらく~

大津波が去った後、被災地には膨大な量のガレキが残された。道路はすべてガレキに埋まり、車も人も通行出来なくなった。このままでは孤立した沿岸の集落に救援が向かうことも出来ない。大船渡市役所の担当者は震災の日の深夜、建設業者の家を一軒一軒まわって三陸沿岸の大動脈・国道45号線のガレキ撤去を依頼する。ガレキの中には遺体もあり、持ち主のいる住宅や車もあり、慎重な作業が求められた。国道を外れた県道では、被災した建設業者が自発的に道路を切り開き始め、孤立した集落への道が確保された。番組では、ガレキに埋まった道路の開通に力を尽くした人々の姿を証言で綴る。

証言記録・東日本大震災 第36回

「福島県新地町」
~津波は知っているつもりだった~

【総合】2014年12月14日(日)午前10:05から放送

「福島県新地町」~津波は知っているつもりだった~

100人余りの犠牲者が出た福島県新地町。大津波警報が出ても多くの人が逃げようとせず、地震の後片付けをしたり、海岸に津波見物に行っていた。津波を警戒しなかった理由はこの町が唯一経験した1960年(昭和35年)のチリ地震津波の体験にある。人々の記憶には被害が少なかった津波ではなく、水が引いた海岸で魚や海藻を取った思い出ばかりが残っていた。今回の津波でも、人々はチリ地震津波を越えないと勝手に思い込んでしまった。番組ではひとつの集落の人々の行動をつぶさにたどりながら、過去の津波体験に基づく思い込みが多くの犠牲につながっていった仕組みを証言で綴る。

証言記録・東日本大震災 第35回

「宮城県仙台空港」
~津波まで70分 空の男たちの闘い~

【総合】2014年11月30日(日)午前10:20から放送

「宮城県仙台空港」~津波まで70分 空の男たちの闘い~

東北地方の中核空港である仙台空港は3月11日の大津波によって水没、機能を失った。しかし、地震発生で空港が閉鎖されてから水没までの間、ヘリコプターや飛行機を離陸させようと懸命の闘いをした男たちがいた。災害調査を行う国交省東北地方整備局や報道各社のヘリの運用を委ねられていた民間航空会社、災害時の被害調査や被災者救出を任務とする海上保安庁仙台航空基地の職員たちだ。彼らは地震で動かなくなった格納庫のシャッターをこじ開け、機能を失った空港当局に代わって自ら滑走路の安全点検を行った。津波までの70分、懸命に任務を果たそうとした空の男たちの姿を証言で綴る。

証言記録・東日本大震災 第34回

「岩手県遠野市」
~内陸の町 手探りの後方支援~

【総合】2014年10月26日(日)午前10:05から放送

「岩手県遠野市」~内陸の町 手探りの後方支援~

岩手県遠野市は海岸から30キロ離れた内陸の町。震災発生からまもなく独自の判断で本格的な被災地支援に踏み切る。それは一人の男性が市役所に駆け込んで避難所の窮状を訴えたことに始まった。しかし、物資支援では現地のニーズとのミスマッチが起こり、錯そうする情報は支援の空振りを生む。結局、現地の生の情報を自ら入手するしかないとして、被災地の災害対策本部に応援を送り込むまでになる。
番組では、情報が少ない中、被災地と情報のキャッチボールを重ねながら手探りで続けた後方支援を、遠野市の人々の証言で綴る。

証言記録・東日本大震災 第33回

「福島県南相馬市」
~孤立無援の街で生き抜く~

【総合】2014年9月28日(日)午前10:05から放送

「福島県南相馬市」~孤立無援の街で生き抜く~

福島県南相馬市は、福島第一原発の事故の際に20キロから30キロ圏に出された屋内退避指示のため、放射能汚染地域とみなされ、一切の物資が入ってこなくなった。当時、市内には5万人の市民が残っており、たちまち食料、生活物資、燃料の窮乏に苦しむことになる。孤立無援の人々を助けたのは、避難をあきらめて店を開け続けた鮮魚店主や、市の要請を受けて避難先から戻り支援物資を運んだ運送業者ら南相馬の市民たちだった。番組では、津波に続く原発事故で危機感が高まり屋内避難指示に至る南相馬で、深刻な物不足の中、人々がいかに生き抜いていったかを証言で綴る。

証言記録・東日本大震災 第32回

「宮城県気仙沼市」
~杉ノ下高台の戒め~

【総合】2014年8月31日(日)午前10:05から放送

「宮城県気仙沼市」~杉ノ下高台の戒め~

宮城県気仙沼市は早くから津波防災に力を入れてきたが、東日本大震災では大きな被害をこうむった。中でも気仙沼湾の入り口に位置する杉ノ下高台では、避難してきた集落の住民およそ60人が津波にのまれるという悲劇が起きている。原因のひとつは、この高台が気仙沼市の指定した一時避難場所だったことにある。行政は住民と勉強会を重ね、最新の研究成果も採り入れながら、ここまで津波が来る可能性は低いと判断し、緊急時の避難を呼びかけてきた。住民も、明治の大津波で水が到達しなかったこの高台であれば安全だと信じていた。番組では、行政と住民が陥った津波対策の盲点を当事者の証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第31回

「岩手県釜石市」
~身元確認・歯科医師たちの闘い~

【総合】2014年8月3日(日)午前10:05から放送

「岩手県釜石市」~身元確認・歯科医師たちの闘い~

千人をこえる死者・行方不明者を出した岩手県釜石市。なかでも被害が大きかったのが「鵜住居(うのすまい)町」である。580人もの人々が犠牲となり、急ごしらえで安置所となった会社の工場には被災直後から次々と遺体が運び込まれてきた。混乱の中で、歯の照合による身元確認を続けたのは自らも被災している地元の歯科医師たちであった。遺体の多くは、数日前まで一緒に暮らしていた町の知り合い。間違いなく家族のもとに帰すために苦闘した2人の歯科医師の証言を伝える。

証言記録・東日本大震災 第30回

「福島県双葉町」
~放射能にさらされた病院~

【総合】2014年6月29日(日)午前10:05分から放送

「福島県双葉町」~放射能にさらされた病院~

東京電力福島第一原発が建つ双葉町。町で唯一の総合病院だった双葉厚生病院では、震災翌日、災害対策本部にいた院長の友人から連絡を受け、寝たきりの患者と医師、看護師など100人余りが避難用のヘリが到着する高校に移動した。直後、原発が水素爆発を起こす。原発建屋の資材が高校のグラウンドにも舞い落ち、高濃度の放射能にさらされた。2時間後、救助ヘリが到着したが、地域の住民も殺到したため、病院関係者など56人が乗りきれずに高校で一夜を過ごした。後の検査で、双葉高校にいた多くの住民が内部被ばくしていることが判明した。避難生活中に妊娠し、悩みぬいた末に出産を決意した女性もいる。番組では、突然の避難で放射能にさらされた病院の患者とスタッフの苦悩を証言で綴る。

証言記録・東日本大震災 第29回

「宮城県石巻市」
~津波と火災に囲まれた日和山~

【総合】2014年6月1日(日)午前10:05分から放送

「宮城県石巻市」~津波と火災に囲まれた日和山~

東日本大震災で最も多い4千人の犠牲者を出した宮城県石巻市。中でも日和山の南に広がる石巻旧市街の南浜・門脇地区では400人あまりが亡くなっている。
町は、津波とその後に発生した津波火災で、壊滅的な被害を受けた。さらに、日和山では震災翌日の早朝まで深刻な危機が続く。9000人が避難していた山に津波火災が迫り、しかも市内の奥深くまで侵入していた津波が日和山を水の中で孤立させていた。日和山の中央出張所の消防士たちは応援の無いまま、限られた機材と人員、水で、人々を守る為に奮闘した。水と火に追い詰められた、瀬戸際の15時間に迫る。

証言記録・東日本大震災 第28回

「千葉県旭市」
~遅れて来た大津波~

【総合】2014年4月27日(日)午前10:05分から放送

「千葉県旭市」~遅れて来た大津波~

九十九里浜の北部に位置する千葉県旭市は、あの日、震度5強の地震に見舞われた。沿岸の住民たちは指定されていた避難所や、内陸へと避難した。その後、押し寄せた2度の津波は、堤防をわずかに越える波だった。そのため多くの住民が安心して帰宅してしまう。しかしそれから1時間後の午後5時20分頃、7.6mの巨大津波が街を襲った。この津波による死者・行方不明者は合わせて15人、600棟以上の家屋が破壊された。震源から遠く離れた関東にありながら、津波によって東北の被災地に匹敵する被害を被った。地震が起こってから、大津波が来るまでの2時間半。旭市の住民たちは何を考え、どう行動したのか、証言で振り返る。

証言記録・東日本大震災 第27回

「福島県いわき市」
~そしてフラガールは帰ってきた~

【総合】2014年3月16日(日)午前10:05分から放送

「福島県いわき市」~そしてフラガールは帰ってきた~

いわき市にある大型レジャー施設で、訪れる人たちにフラダンスを振る舞い、地域を盛り立ててきた「フラガール」。あの日、彼女たちはショーが終わった直後に東日本大震災に見舞われた。レジャー施設は休業。29人いたフラガールは自宅待機となった。津波で家を失った人、原発事故のため自宅に帰れなくなった人など、メンバーは散り散りになって震災後の混乱の日々を送る。しかし、震災から1か月余り、29人全員が再結集した。フラガールたちはどう行動し、何を思い、踊りに帰ってきたのか。一人一人の震災証言をつづる。

証言記録・東日本大震災 第26回

「宮城県名取市」
~誰も想像できなかった~

【総合】2014年2月23日(日) 午前10:05分から放送

「宮城県名取市」~誰も想像できなかった~

宮城県名取市の海沿いに広がる閖上(ゆりあげ)地区。昔から「遠浅の閖上の海には津波は来ない」と信じられていたという。あの日、指定避難所だった閖上公民館に300人余りが避難していた。その時、2つの不測の事態が発生していた。防災無線が壊れ、幹線道路で交通事故が起きていたのだ。地震からしばらくたった頃、「10mの津波がくる」という情報がもたらされ、人びとは2階建ての公民館では危険だと近くの中学校へと向かった。しかし、住民の多くは危機感が薄く、交通事故による渋滞も加わり避難が遅れた。名取市では津波で750人余りが犠牲となった。
津波が来ないと信じていた閖上の人々。これまで経験したことのない大津波に襲われた時、何を考え、どう命を守ったのか。

証言記録・東日本大震災 第25回

「岩手県大槌町」
~病院を襲った大津波~

【総合】2014年2月2日(日) 午前10時05分から放送

「福島県相馬市」~津波と放射能に巻き込まれて~

三陸海岸のほぼ中央に位置する岩手県大槌町。およそ16000人が暮らしていた。震災で亡くなった人は人口の1割に及んだ。それまで町は過疎化が進行し、医師の不足も深刻だった。地域医療の拠点である大槌病院も、内科医3人だけの厳しい体制だった。そこに大地震が起きた。
あの日、町は大津波の直後から猛火に襲われ、大勢の人々は身動きが取れなくなり孤立した。大槌病院でも53人の患者を懸命に屋上へ避難させた。夜を徹しての看護師たちの必死の看護も実らず患者が2人亡くなった。町に5つあった診療所も津波により全壊。そんな状態でも、開業医たちは震災翌日から町に複数ある避難所を分担して医療を始め、大槌病院の入院が必要な患者を受け入れることが出来た。元々、医療過疎の状況にあった大槌町の医療従事者たちは普段から分担する関係を築いていたため、協力し合えたのだ。
番組では、孤立した病院内で奮闘した医師や看護師たちの証言を記録。医療関係者は状況が刻々と変化する中、どの様に対応したのか。震災で多くのものが失われた中、命を必死につなごうとした人々の姿を描く。

証言記録・東日本大震災 第24回

「福島県相馬市」
~津波と放射能に巻き込まれて~

【総合】2013年12月15日(日)放送

「福島県相馬市」~津波と放射能に巻き込まれて~

9メートル近い津波に襲われた福島県相馬市。県立自然公園の松川浦に沿った漁師町、原釜・尾浜地区、磯部地区を中心に458人の死者を出した。
松川浦漁港にあった漁業協同組合の職員は、津波の直撃を受けた。津波から船を守るために「沖出し」をした漁師は、10メートル近い波を何度も乗り越えて、船を守るが、その間に陸に残してきた妻を亡くした。船よりも住民の避難誘導を優先した漁師の消防団員は、波に飲まれて命を落とした。
そして、原発事故により漁師たちは現在も操業自粛を余儀なくされている。津波と放射能に翻弄された、海に生きる人々の苦難を証言で追う。

証言記録・東日本大震災 第23回

「宮城県仙台市荒浜」
~住民の絆を引き裂いた大津波~

【総合】2013年11月24日(日)放送

「宮城県仙台市荒浜」~住民の絆を引き裂いた大津波~

400年ともいわれる歴史を持つ仙台市東部の荒浜地区。太平洋に面し、穏やかな気候に恵まれたこの地区では、古くから受け継いできた伝統行事や学校の運動会を通して、住民同士の深いつながりを培ってきた。
あの日、地震が平日の午後に起きたため、働き手の多くは町の外に出ていて不在、町に残っていたのは、ほとんどがお年寄りだった。
残された人々は、高齢者の救出活動に奔走。町外で働いていた人も、荒浜に駆けつけた。地域の絆を頼りに津波到達ぎりぎりまで、住民を救おうと奮闘した人々の証言記録。

証言記録・東日本大震災 第22回

「岩手県宮古市田老」
~巨大堤防を越えた津波~

【総合】2013年10月27日(日)放送

「岩手県宮古市田老」巨大堤防を越えた津波~

2005年に宮古市と合併した旧田老町は、明治29年と昭和8年の大津波で壊滅的な被害を受けた歴史を持つ。「二度と津波で死者を出さない」と誓った人々は、巨大堤防を築き、避難路や警報設備を整備し、避難訓練を繰り返すなど、万全の備えを固めていた。しかし、東日本大震災で犠牲者は181人、人口の4%にのぼった。中でも、漁港近くの野原地区では人口の1割が犠牲となった。
ここはかつて津波の危険地帯とされ、住む人はほとんどいなかった。最初に建設された巨大堤防の外側にあり、堤防にぶつかった津波のエネルギー を誘導する場所だったためだ。しかし、昭和30年代後半になると、行政は防災と発展の両立を目指し、海側に新たな堤防を建設。並行して野原地区の宅地化を推進した。二重になった巨大堤防は、津波防災のモデルケースとして高く評価され、津波に備えて高台に住んでいた人たちも新しい堤防を信じて平地に戻ってきた。だが実際は、海側堤防は主に高潮を防ぐための「防潮堤」であり、大津波の圧力に耐えられるようには設計されていなかった。
昭和8年の教訓から生まれた大津波対策は、なぜ生かされなかったのか。堤防の能力や役割と住民の認識とのギャップはなぜ生まれ、どのように広がったのか。住民たちの証言から見つめていく。

証言記録・東日本大震災 第21回

「福島県富岡町」
~"災害弱者"突然の避難~

【総合】2013年9月29日(日)放送

「福島県富岡町」~"災害弱者"突然の避難~

福島第一原発からおよそ10kmに位置する富岡町は、震災翌日、突然の避難指示で全町民が避難を余儀なくされた。町の人々が着のみ着のままで避難する中、障害者施設、高齢者施設等で暮らす人たちは、度重なる移動や劣悪な環境下での生活を余儀なくされ、その避難は困難を極めた。本人の体調悪化はもとより、彼らに付き添った施設の人々の苦労も計り知れないものがあった。また、避難指示の際に逃げ遅れ、町に一人で取り残された高齢の障害者もいた。突然の避難に翻弄された“災害弱者”たちの証言記録。

証言記録・東日本大震災 第20回

「宮城県多賀城市」
~産業道路の悪夢~

【総合】2013年9月1日(日)放送

「宮城県多賀城市」~産業道路の悪夢~

東北最大の物流拠点、仙台港の北に隣接する宮城県多賀城市。港に集積された物資を東北各県に運ぶ、国道45号線と県道23号線、通称「産業道路」を中心に発展した街だ。2011年3月11日、地震からおよそ1時間後「産業道路」は避難する車で渋滞していた。そこに津波が押し寄せた。津波はあっという間に1.8mに達し、車を押し流し、車から逃げ出した人々を飲み込んだ。
津波からかろうじて生き残った人々は、何時までたっても引かない水の中で、車の屋根に乗って救助を待ち続けた。一度氷のような水に濡れた人々をさらに夜の闇と氷点下3度の厳しい寒さが襲う。救助を待つ間に、体温と体力を奪われたお年寄りが低体温症におかされていく。
震災の日の夜、産業道路沿いにあった中古車販売店の敷地に取残された18人が、迫りくる死とどのように闘ったのか。津波によって変貌した都市の恐怖を証言でつづる。

証言記録・東日本大震災 第19回

「岩手県大船渡市」
~静かな湾に押し寄せた大津波~

【総合】2013年8月4日(日)放送

「岩手県大船渡市」~静かな湾に押し寄せた大津波~

岩手県南部の大船渡湾は内陸部に深く入り込んだ波静かな天然の良港だった。沿岸には魚市場やセメント工場があり、漁船や運搬船など様々な船が行きかっていた。2011年3月11日の地震直後、漁師たちは船を守るために沖へと出ようとした。しかし、大津波は、湾の入り口に両岸から突き出した防波堤の間で勢いを増し、2隻の漁船を飲み込んでしまう。一方、湾の奥深くに停泊していた運搬船も津波に襲われた。ロシアから来た魚の運搬船は操縦が出来なくなり、岩山に乗り上げて座礁してしまう。命からがら助けを求めたのは日本の大型セメント運搬船だった。
あの日、大船渡湾で荒れ狂う波に翻弄されながらも、船を守るために必死に闘った漁師と船乗りたちの証言を記録する。

証言記録・東日本大震災 第18回

「福島県飯舘村」
~逃げるか留まるか 迫られた選択~

【総合】2013年6月30日(日)放送

「福島県飯舘村」~逃げるか留(とど)まるか 迫られた選択~

東京電力福島第一原発から40キロの距離にありながら、深刻な放射能汚染にさらされた福島県飯舘村。
一ヶ月の間、政府からの避難指示はなく、村長の菅野典雄さんは村にとどまり、村民の生活を守ろうと尽力した。一方、幼い子どもをもつ母親たちは、放射能への不安を募らせ自主避難を決意する。しかし、公的な避難指示がない中で避難を続けることは難しく、次々に村に戻っていった。4月、政府から計画的避難の方針が打ち出された後も、菅野村長は事業所の操業継続を交渉するなど、住民の生活の基盤を残すために奔走。全村避難が完了するまで時間がかかり、原発事故から3ヶ月たっても村内に残っている母親と子どもたちがいた。
子どもの命を守るために逃げるのか、生活を守るためにとどまるのか。苦渋の選択に迫られ続けた小さな村の記録。

証言記録・東日本大震災 第17回

「宮城県東松島市」
~指定避難所を襲った大津波~

【総合】2013年5月26日(日)放送

「宮城県東松島市」~指定避難所を襲った大津波~

日本三景、松島の東に位置する宮城県東松島市。大震災による死者・行方不明者は1100人を超え、家屋の全半壊は全住宅のおよそ3分の2にあたる11000棟以上に及んだ。
あの日、避難所に指定されていた野蒜(のびる)小学校の体育館には、老人ホームのお年寄りや保育園の子どもたち、そして学校の児童およそ370人が避難していた。その体育館に大津波が襲いかかった。高さ3メートルの黒い水は体育館の中で洗濯機の渦のように荒れ狂い、30人近い地域住民の命を奪った。一方、たまたま校舎の3階に避難した住民は全員無事だった。なぜ多くの人々は校舎でなく体育館に避難したのか。そして、大津波警報があったにもかかわらずなぜそこにとどまったのか。元小学校教師や老人ホームの元職員、体育館で妻を亡くした遺族の証言から、野蒜小学校に集まった人々の一日を克明に追い、安全だと信じられていた指定避難所の悲劇を検証する。

証言記録・東日本大震災 第16回

「岩手県野田村」
~“祭り”を奪った津波~

【総合】2013年4月28日(日)放送

「岩手県野田村」~“祭り”を奪った津波~

岩手県北部、人口4800の野田村。人々は、山林と海に囲まれたわずかな土地に肩を寄せ合うように暮らしてきた。土地が狭く、主だった産業のなかった村では、長年、出稼ぎが人々の暮らしを支えてきた。男たちの多くが故郷を離れて暮らす中、村の結束をはかってきたのが年に一度の夏祭りだ。子どもからお年寄りまで村人総出で行われる祭り。しかし、大津波は、村の人々が大切にしてきた祭りの山車をのみこんだ。祭りが育んだ人と人とを結ぶ絆。津波によってその絆を奪われた人々の証言を記録する。

証言記録・東日本大震災 第15回

「福島県葛尾村」
~全村避難を決断した村~

【総合】2013年3月17日(日)放送

「福島県葛尾村」~全村避難を決断した村~

東京電力福島第一原発から20キロ~30キロ圏内に位置する福島県葛尾村。地震の被害はほとんどなく、また、国からも県からも避難指示は出されていなかった。にもかかわらず、地震からわずか3日後に、全村避難を決定する。それは、原発事故を重くみた村による独自の判断だった。14日夜9時過ぎ、村は全戸に避難を呼び掛け、あわただしく村を離れた。しかし村には、その後も50人ほどが残った。その多くは畜産農家だった。手塩にかけて育ててきた牛をどうするのか、国からも県からもはっきりとした方針が示されず、畜産農家は追い詰められていく。絶望し、自ら牛を殺処分した農家、最後まで殺処分に抵抗した農家。全ての村人が村を離れたのは、およそ3か月後だった。全村避難した小さな村で何があったのか。その決断と苦悩を伝える。

証言記録・東日本大震災 第14回

「宮城県南三陸町」
~高台の学校を襲った津波~

【総合】2013年2月17日(日)放送

「宮城県南三陸町」~高台の学校を襲った津波~

2011年3月11日、宮城県南三陸町を襲った津波は、800人を超える人の命を奪った。志津川湾の南西に位置する戸倉地区には、20mを超える津波が襲い75%の家屋を水没させた。20mの高台にあり震災時の指定避難場所だった戸倉中学校の校庭にも津波は押し寄せた。
中学校の校庭には学校の災害マニュアルに従って集まった生徒たちとともに近隣の住民が大勢避難していた。生徒60人を含む200人は思いもよらない津波に逃げ惑った。教師の菊田浩文さん(50)は同僚と共に老夫婦を救おうとして波に飲まれ、一人だけ生き残った。生徒たちは、水に沈む生存者を即席ロープで助けようとしたり、低体温症で生死をさ迷う男性に抱きついて温めたりして必死に救助活動を行なった。同僚を失い生きる気力を失いかけた菊田教諭は、教え子たちの姿が心の支えとなって、少しずつ生きる力を取り戻していく。
安全と思われた戸倉中学校を襲った大津波。大きな混乱の中で教師や生徒は、何を思い、どう行動したのか。命を守るためのぎりぎりの行動とそれぞれの心の軌跡を記録した。

証言記録・東日本大震災 第13回

「岩手県釜石市」
~津波で孤立した港町~

【総合】2013年2月3日(日)放送

「岩手県釜石市」~津波で孤立した港町~

岩手県南部に位置する釜石市は、製鉄所のある中心市街地の他に、入り組んだ海岸線に沿って20ほどの港町が点在している。そのひとつ箱崎町は、高さ11メートルの津波におそわれ、町に通じる道路が通行不能となり陸の孤島となってしまった。
外部からの救援が期待できない中、箱崎では生き残った住民たちが力をあわせて対応した。住民たちは津波の翌日から重機を使ってがれきを撤去し、道路の復旧を始めた。また、がれきの中から見つかる遺体の収容も住民たちが自ら行った。それは皆、昨日まで一緒に暮らしていた仲間だった。自衛隊が本格的な捜索を始めたあとも住民の代表が立ち会い、遺体の身元確認を手伝った。立ち会いをした植田秀実さん(59)は「箱崎の犠牲者をすべて弔うまでは復興は始まらないと思い取り組んだ」と語る。
津波で孤立する中、亡くなった人を家族の元に帰すために力を尽くした箱崎の住民たちの証言を紹介する。

証言記録・東日本大震災 第12回

「福島県浪江町」
~大津波と原発事故に
引き裂かれた町~

【総合】2012年12月16日(日)放送

「福島県浪江町」~大津波と原発事故に引き裂かれた町~

東日本大震災によって、184人の死者・行方不明者を出した浪江町。請戸地区を中心とする沿岸部は、津波によって住民の1割が亡くなった。余震が続く3月12日早朝、福島第一原発から10km圏内に避難指示が出される。それは被災者に、家族の安否が分からないまま逃げなければいけないという、酷な選択を迫るものだった。
町民の必死の訴えによってようやく捜索が始まったのは、震災から一か月後の4月14日。長く放置された遺体は変わり果て、家族にも判別が困難な状態だった。遺族たちは、今も肉親を残して避難したことへの自責の念に苦しんでいる。これまでに例のない巨大津波と原発事故の二重災害に見舞われた浪江町の人々。その壮絶な体験を、証言によって記録する。

証言記録・東日本大震災 第11回

「宮城県気仙沼市」
~津波火災と闘った島~

【総合】2012年12月2日(日)放送

「宮城県気仙沼市」~津波火災と闘った島~

リアス式特有の海岸と美しい砂浜で知られ、「緑の真珠」と例えられてきた気仙沼大島。東日本大震災のとき、重油が流れ出した気仙沼湾の火災が大島にも燃え移り大規模な山火事に発展した。津波で本土との連絡手段のほとんどを失った島の人々は、鎮火まで4日半にわたる孤独な闘いを強いられた。消防士も消防団も疲労困ぱいする中、300人以上の住民たちが立ち上がり、スコップや杉の板で火をたたき消したり、可燃物を取り除き防火帯を作ったりして、消火作業に協力した。これまで全く想定されていなかった複合災害に、島民はどう立ち向かったのか。島を守り通した人々の7日間を記録する。

証言記録・東日本大震災 第10回

「岩手県宮古市」
~三陸鉄道を襲った大津波~

【総合】2012年10月28日(日)放送

「岩手県宮古市」~三陸鉄道を襲った大津波~

岩手県の海岸に沿っておよそ100kmを走る三陸鉄道。通称“さんてつ”の名で親しまれ、昭和59年の開業以来28年にわたって地元の人々の足として活躍してきた。
3月11日、大津波は鉄路や駅舎を破壊した。しかし、宮古市にある“さんてつ”の本社は一日も早い運行再開を決意、震災翌々日から復旧に動き出す。職員たちは不眠不休で工事計画を立て、修復材の手配を行い、再開前には壊れた踏切には職員が信号の代わりに立って安全を確認した。そして3月20日、震災後はじめての列車が宮古駅を出発した。
被災直後の混乱の中、市民の足を守るために格闘した鉄道マンたちの思いを描く。

証言記録・東日本大震災 第9回

「福島県三春町」
~ヨウ素剤・決断に至る4日間~

【総合】2012年9月30日(日)放送

「福島県三春町」~ヨウ素剤・決断に至る4日間~

東京電力福島第一原発から西に50kmに位置する福島県三春町。原子力災害とは無縁だったこの町で、震災4日後の3月15日、安定ヨウ素剤が住民に配られ服用が促された。
この薬は放射性ヨウ素から体を守る効果を持つ重要な薬であったが、服用には国もしくは県の指示が必要とされていた。情報が錯そうする中、三春町の職員たちは独自に調査を行い、独自の判断で服用の指示を決意する。その葛藤から決断にいたる4日間の証言を伝える。

証言記録・東日本大震災 第8回

「宮城県山元町」
~“ベッドタウン”を襲った津波~

【総合】2012年9月16日(日)放送

「宮城県山元町」~“ベッドタウン”を襲った津波~

太平洋に面する市町村の中で、宮城県の最南部に位置する山元町。ほぼ直線の平らな海岸線を持つこの町では、総面積のおよそ4割が浸水し、2000戸以上の家屋が全壊、600人余りの人々が命を失った。
震災前まで、沿岸の平野部には、農地と住宅地が広がっていた。仙台との距離はおよそ35km。かつては海沿いを常磐線が走り、仙台駅までの所要時間は40分余りだった。もともと農業が基幹産業だった山元町だが、交通網の発達に伴い、震災前には、仙台などの都市部に通う通勤者・通学者にとっての、いわゆる「ベッドタウン」となっていた。
震災が起こったのは、金曜日の昼下がり。多くの人が町の外に働きに出ていた中、町に残っていたのはお年寄りや子どもたちだった。ある老夫婦は、働く娘夫婦から預かっていた幼い孫娘の命を守ろうとした。町の外で働いていたため、津波が迫る中、家族の元に駆けつけられなかった人は少なくない。働き盛りの世代が少ない状況の中で、懸命に命を守ろうとした人々の証言を記録する。

証言記録・東日本大震災 第7回

「岩手県山田町」
~それでも海に生きる~

【総合】2012年9月2日(日)放送

「岩手県山田町」~それでも海に生きる~

岩手県山田町は、カキやホタテの養殖に力を入れてきた漁業の町である。なかでも殻がついたままで出荷する大粒のカキは全国一の生産量を誇っていた。あの日の大津波で船や養殖のいかだなど漁業が受けた被害は2百億円をこえ、山田湾では漁船の8割近くが失われた。船が助かった漁師たちの中には、収入の柱であった養殖の代わりに、当面漁で生計をたてる人もいる。海がもつ怖さを知り、傷つきながら、それでも海とともに生きていこうとする人々の証言を記録する。

証言記録・東日本大震災 第6回

「福島県大熊町」
~1万1千人が消えた町~

【総合】2012年7月1日(日)放送

「福島県大熊町」~1万1千人が消えた町~

東京電力福島第一原子力発電所が立地する、福島県大熊町。かつては産業に乏しく、出稼ぎが人々の暮らしを支えていた。41年前営業運転を始めた原発は雇用を生み、町は大きく発展してきた。長年にわたって“安全神話”が信じられ、住民の二世帯に一人は原発関係で働く原発城下町だった。その原発が巨大地震と津波に襲われ、制御不能に陥った原発は炉心溶融し、水素爆発を起こした。
相次ぐ爆発と放射能の恐怖に住民たちは何を考え、どう行動したのか。原発とともに歩み、原発に故郷を奪われた人々の証言を記録する。

証言記録・東日本大震災 第5回

「宮城県石巻市」
~北上川を遡った大津波~

【総合】2012年5月20日(日)放送

「宮城県石巻市」~北上川を遡上した大津波~

岩手県を源流に石巻市内を流れ、追波湾へと注ぎ込む北上川。かつては河口から十数キロに渡り、かやぶきに使われるヨシ原が広がり、シジミやカキの養殖でも有名だった。あの日、津波は、大きく蛇行する北上川に、数回に渡って押し寄せ、河川沿いのほとんどの集落を飲み込んでいった。地震直後、河口の長面(ながつら)地区の人々は山へと避難を始めたが、真っ黒な巨大津波は取り残された老人たちを瞬く間に押し流した。命からがら山へ逃げた人も、四方を海に囲まれ、3日間にわたり孤立した。北上川を遡上した大津波におそわれた人々の証言を記録する。

証言記録・東日本大震災 第4回

「岩手県大槌町」
~津波と火災におそわれた町~

【総合】2012年4月29日(日)放送

「岩手県大槌町」~津波と火災におそわれた町~

岩手県大槌町は巨大津波の直後から猛火にもおそわれ、多くの犠牲を生んだ。大槌町の死者・行方不明者は千二百人をこえている。そのおよそ半数を檀家にもつお寺がある。
この江岸寺は、町の津波避難所に指定されていた。震災当日、津波は山すその寺にまで達し、避難してきていた人々をのみこみ、本堂や庫裏を破壊した。自らも津波におそわれ、かろうじて救われた江岸寺の住職は、家族が行方不明のまま、親戚の寺に間借りして、犠牲者の供養を続けた。震災から一年がたち、プレハブの仮本堂で寺は新たな歩みを始め、津波で失った本尊も檀家といっしょに作り直すことになった。
津波と火災におそわれた町で、寺を中心に助けあった人々の証言を記録する。

証言記録・東日本大震災 第3回

「福島県南相馬市」
~原発危機・翻弄された住民~

【総合】2012年3月20日(火)放送

「福島県南相馬市」~原発危機・翻弄された住民~

あの日、未曾有の災害に襲われた人々と街の証言記録。第3回は、巨大津波と原発事故、ふたつの大災害に直面した福島県南相馬市。

福島県のまとめによると、南相馬市での死者・行方不明者は600人をこえる。からくも津波から逃れた住民たちをさらに追い詰めていったのが、福島第一原子力発電所で相次いで発生した原発事故だった。国が原発でおきつつある深刻な事態を十分把握しきれていなかったため、避難すべきかどうか判断するための確かな情報が、国や県から南相馬市へ、さらには住民へと伝えられることがなかった。

情報が錯綜するなか、住民ひとりひとりが厳しい判断を強いられた。目に見えない放射能の脅威におびえながら、住民は何を考え、どのように行動したのか。原発危機に翻弄された南相馬市の住民の証言を記録する。

証言記録・東日本大震災 第2回

「宮城県女川町」
~静かな港を襲った津波~

【総合】2012年2月26日(日)放送

「宮城県女川町」~静かな港を襲った津波~

震災前、1万人の人々が暮らしていた宮城県女川町は、リアス海岸がつくる深くて静かな良港を持ち、沖合に優れた漁場を有する水産の町です。全国有数のサンマの水揚げ高を誇り、カキやホタテの養殖も盛んに行われてきました。
東日本大震災では、これまで恵みをもたらしてくれた静かな海が姿を変えて町を襲いました。死者・行方不明者の数は800人以上、およそ12人に1人が犠牲となりました。水産業は大きな被害を受け、多くの人々が生きる糧を失いました。
番組では、妻と両親を失い、幼い3人の子どもをひとりで育てる漁師、自宅ごと海に流されたものの生還した男性、女川町の水産加工場を失った経営者などの証言を通して、襲った津波の実態、かつての女川町の姿、そして町の再建などについて明らかにします。

証言記録・東日本大震災 第1回

「岩手県陸前高田市」
~消防団が見た巨大津波~

【総合】2012年1月29日(日)放送

「岩手県陸前高田市」~消防団が見た巨大津波~

128人の団員のうち、28人の死亡・行方不明者を出した、岩手県陸前高田市の消防団、高田分団。写真店、電気店、生花店、市役所職員などのなりわいをもち、災害時に出動して危険な任務につく団員たちは、親族同然の付き合いで、町の人たちの信頼も厚かった。
3月11日、地震発生後、団員たちは水門を閉めようとただちに海岸の防潮堤に向かったり、交差点に向かい道路の閉鎖と避難誘導を始めたりしたが、予想もしなかった巨大津波の前になすすべもなかった。団員一人一人が被災者として、大津波がもたらす惨劇を目撃し、体験した。
消防団員としての使命ゆえに、最も過酷な現場に巻き込まれ、ぬぐえない記憶を抱えることになった。かろうじて津波から逃れた団員たちは、家族の安否すら分からない状況の中、翌3月12日から、がれきを乗り越え、生存者の捜索にむかっていった。

消防団員たちは今、仮設住宅で生活しながら、今後の暮らしや町のあり方に思いを巡らせている。多くの仲間や家族を失うことになった現実、街を支えてきた誇りと挫折感、生まれ育った土地への愛着、葛藤など、彼らの証言を通して、陸前高田を襲った大震災の姿を記録する。