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“No Attack, No Chance” 佐藤琢磨の信念

“No Attack, No Chance” 佐藤琢磨の信念

2017年6月22日

“世界最速”ともいわれる自動車レース「インディ500」で、F1出身の佐藤琢磨選手が日本人初優勝。残り5周でトップに躍り出る劇的な勝利だった。クロ現+は佐藤琢磨選手に密着。栄冠の裏にはこだわり続けてきたひとつの信念があった。

勝因は計算し尽くされた“アタック”

アメリカの中西部のインディアナポリス。ここで開催される「インディ500」では30万人を超える観衆が熱狂する。F1のモナコ・グランプリ、ルマン24時間耐久レースと並ぶ世界3大レースだ。最高時速380キロ以上の高速で、だ円形のコースを200周(800キロ)走る。101回目を迎えた今大会で、琢磨選手は、日本人初優勝の快挙を成し遂げた。それは、琢磨選手が、「絶対にできると信じ続けた」8度目の挑戦だった。

レース序盤は荒れた展開となった。マシンどうしの接触や、壁への激突が相次ぐ。高速で走るマシンの周りには乱気流が吹き荒れ、それに巻き込まれるとマシンのコントロールが効かなくなる。実際、琢磨選手も去年(2016年)、乱気流に襲われリタイアに追い込まれた。

今回、琢磨選手とチームが立てた作戦は、トップ集団と距離を置くことだった。
「長いレースなので、10台に飲み込まれるよりは、前に4~5台、あるいは2~3台の方がリスクマネジメントしやすい。」(琢磨選手)

読みは当たった。序盤、順調にレースを進める琢磨選手。しかし82周目、思わぬアクシデントに見舞われる。ピットインの際にタイヤを固定する部品が転がり、作業に手間取ってしまった。およそ2秒のロスで勢いが削がれ、その後一気に順位を落としてしまう。しかし、琢磨選手に焦りはなかった。レース終盤に勝負をかける秘策があったからだ。

琢磨選手が3週間かけてチームのスタッフと取り組んだのが、マシンの調整だ。レース終盤、ライバルたちがタイヤの摩耗で苦しむなか、琢磨選手は、順位を徐々に上げ、ピットインのアクシデントから84周をかけて6位まで戻す。このとき、琢磨選手には「きょうはいける」という手ごたえがあったという。

残り6周。琢磨選手はついに2位まで追い上げる。行く手を阻むのは、現役最多、3度の優勝に輝いた名ドライバーのエリオ・カストロネベスだ。琢磨選手は残り5周でアウトコースから抜き去った。

「5周あれば自分が先頭に出て、そのあと、エリオ・カストロネベスに抜き返されたとしても、まだ自分は抜き返す時間がある。残り2周の時に1コーナーを抑えれば勝てるという確信はありました」(琢磨選手)

追撃するエリオをかわしながら、琢磨選手は前だけを見据えて突き進む。コンマ何秒を争う世界ではミラーを見るだけでロスになる。こうした状況の選手を支えるのは、第3の目といわれる「スポッター」だ。無線で刻一刻と変化するマシンの状況やライバルの位置などを伝える。琢磨選手のスポッターは、百戦錬磨の元王者が猛追する状況を的確に伝え続けた。「外側注意。外側だ、外側だ。クリアだ、いいぞ。あと1周だ」。

チェッカーが振られた瞬間、エリオとの差はわずか0.2秒。チームとともに緻密に組み立てた戦略の末につかんだ栄光だった。

琢磨選手は、勝因をこう振り返る。
「完全なチームワークのおかげですね。とにかく車を速くする、この作業がプラクティス(レースの前に行われる練習走行)を通じて、ずっとよかった。速い車を支えるエンジニアとメカニックたち、そしてチームメイト。1人だけでは速い車は作れない。グループランというのを行いながら、集団で走っているときの強い車を見定める作業ができたのは、チームメイトのおかげ。全員の力で勝てたと思います。」

琢磨選手の信念 “No Attack, No Chance”

40歳でつかんだ栄光。しかし、レーシングドライバーとしては、決して早い方ではない。もともと琢磨選手は日本史上7人目のF1ドライバーだった。最高順位は3位。目標だった世界の頂点を極めることはできないまま、33歳でインディーカーシリーズに転身。その後2013年にはロングビーチGPで優勝。インディ500ではなかなか優勝に手が届かなかったが、けして諦めなかったという。

「自分の夢はやっぱりトップになることだった。インディーカーに転身してから、本当に誰でもトップが狙える、そういう環境に身を置いて、もう諦めるなんてことはなかった。優勝を狙うというのは、今も全くスタイルとしては変わらない。」

その言葉を体現したのが、5年前のインディ500。2番手でラスト1周を迎えた琢磨選手は、トップを走るマシンのインコースを果敢に突いてスピン。17位に終わった。
安全策を取って2位を確保することもできた。しかし琢磨選手はこう話す。「勝てるレースをみすみす逃す。そこにチャンスが開かれる機会があるのに。それを挑戦しにいかないというのは、自分の中ではなかった。」

こだわり続けてきた信念がある。
“No Attack, No Chance”(挑戦なくして、チャンスなし)

「チャンスというのは、誰にでもやってくるものだと思うけど、正しいタイミングで自分が必要な時に来るとは限らないですね。だったら、自分から取りに行くしかない。でも、自分から取りにいくには、挑戦を続けるしかないんですね。この間のインディ500の優勝に関しても、12年の優勝まであと一歩というところでも、そこでも、やっぱり夢を持ち続けて、信じ続けて、挑戦を続けたからこそ、再びこうしてチャンスをつかみとることができたと思います。」

“No Attack, No Chance”の原点

「チャンスを自ら取りに行くしかない」と話す琢磨選手。その原点ともいえるエピソードがある。

初めてF1のレースを見たのは10歳の時。伝説のドライバー、アイルトン・セナが次々とライバルを抜き去る姿にくぎづけになった。

その後、高校に進学した琢磨選手は、レース競技に身を置きたいと自転車を始めた。しかし、高校に自転車部がなかったため、学校に掛け合い、自ら部を立ち上げたのだ。日本一を目標にトレーニングに励み、高校総体で優勝を果たす。当時の顧問を務めた大沢進さんは、今回のインディ500での優勝に、高校時代の琢磨選手の姿が重なって見えたという。

「練習するときは、ものすごい練習して、目標は自分できちんと決めて、それに向かって、ただひたすら努力をする。すごいです、その精神力は。どんなことがあっても、次はというふうにすぐに持っていく」

念願のレーサーへの道をこじあけたのも、「アタックしなければチャンスはない」という信念だった。レーシングスクールに入学したのは19歳。年齢制限ぎりぎりの挑戦だったが、世界の頂点を極めたいと練習を重ね、スクールの講師に勝つまでになった。
「この先、いくつも階段があると思うが、それを全部、数字をつけるなら一番でなければ、当然、最後の目標にはいけない。」
そう話していた青年が、20年後、世界の大舞台で頂点に立ったのである。

次の夢は?と尋ねると、琢磨選手はさらに大きな目標を掲げた。インディーカーシリーズで「年間チャンピオン」になることだという。

「好きだから続けたい、好きだから極めたい。そして僕一人の夢ではない。チーム全員の夢。そして、そこに携わる本当に多くのスタッフがいて、そのチームを支えるスポンサーがいて、そのスポーツを支えるファンがいる。挑戦して、失敗から学んで、また再び挑戦して、そして栄光を勝ち取る」

“No Attack, No Chance”- 佐藤琢磨選手の挑戦は続く。

この記事は2017年6月14日に放送した「“世界最速”佐藤琢磨 No Attack No Chance (挑戦なくして チャンスなし)」を元に制作しています。

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