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“死”をどう生きたか 日野原重明 ラストメッセージ

“死”をどう生きたか 日野原重明 ラストメッセージ

2017年8月7日

7月に亡くなった医師・日野原重明さん(享年105歳)。100歳を超えてからも現役の医師として活躍し「生涯現役」「健康長寿」の象徴でもあった。早くから予防医学に取り組み、全国に先駆けて「人間ドッグ」を導入。そして、「生活習慣病」という捉え方を普及させた。また、「生き方上手」等の書籍は大ベストセラー。そんな日野原さんが生涯をかけて問い続けてきた言葉がある。「生とは何か」「死とは何か」、そして「死をどう生きるのか」。そこには、医師としての日野原さんの知られざる葛藤があった。

日野原重明さん 医師としての問いかけ

「頂上はないけど、坂はあるだけ。やっぱり患者とどうして一体感になるか」

若い研修医から「医師として最終的な目標はありますか」と聞かれた時の、日野原さんの答えだ。このとき99歳。日野原さんには、医師として、生涯をかけて問い続けてきたことがある。

“人は死をどう生きるべきか。そして、生を完成させるこの終末に立ち会う医療は、そこで何をなすべきか。”(『平穏死』のすすめ 解説より)

問いの原点にあるのは、若き日に目の当たりにしたおびただしい数の死だ。33歳のとき、東京大空襲を経験した。目の前で次々と無念の死を遂げていく人たち。日野原さんは、無力感にさいなまれたという。

苦い記憶となる出来事もあった。医師として、初めて受け持った16歳の少女の死。死を受け入れたかに見えた少女に対し、日野原さんは無理な延命を施したのだ。

“私は彼女を安らかにみとるのではなく、最期まで苦しめてしまった。そのことがいつまでも心に引っかかっていた。” (「僕は頑固な子どもだった」より)

こうした経験を重ねた日野原さんは、終末期医療に力を入れるようになる。日本で初めてホスピス専門の病院を開設したのも日野原さんだった。

40年近く親交があるノンフィクション作家の柳田邦夫さん。日野原さんと初めて会ったのは、1980年に行われた講演会だった。

「当時まだ、ホスピスとか、死の臨床などという言葉が一般化していない時代で、早くも一般の方々の啓発活動として講演会の中で語られていたんですが、それを聞いて、ものすごく感銘を受けたんです」

死に向かう最期の時間をどう豊かに生きてもらうか。日野原さんは、患者の理想の死を追求し続けてきた。

「その最期にね、ありがとうっていう、自分が生を与えられたことに対する感謝をね、いろんな方面にね、自然にこう、声がでるようなことがあればいいと思いますね。だから私は、いろいろ苦しいときにモルヒネなんか、こういろいろするけどね、意識が全くなくなってしまうと感謝の言葉が出ないから、そこまで強いお薬を使わなくても、いま死んでいく自分だっていうことが分かる意識あればね。その時にその人はそういう言葉を心の中にでもね、出すことが出来るっていうように思うわけですよね」(日野原さん)

最愛の妻の死と向き合って 「医師として、夫として」

生涯で1,000人を超す患者の死をみとってきた日野原さん。しかし、最愛の妻、静子さんの死は自身にとって全く異なるものだった。

静子さんは、80歳を過ぎた頃から意思の疎通が難しくなり、目に見えて体調が悪化。入退院を繰り返した。日野原さんは医師として静子さんらしい死を迎えてほしいと強く願う一方、夫として、妻の死を前に崩れ落ちそうになる自分も感じていた。

「私自身の生き方とか命を考える、こんなにシリアスに訴えてくることは今までなかった。もうこの病気はやむを得ないんだから、ベスト尽くしたからこれであきらめざるを得ないという気持ちで今までは水に流されたのが、今はね、水に流すことは考えられないね」(日野原さん)

生前、日野原さんと親しくつきあってきた医師の石飛幸三さん。当時の思いをこう推察する。

「あの認知症の奥さんを思えばこそ、何とか奥さんにもっと生きて欲しいという日野原先生の思いが伝わってくる。人生の最期っていうのは、深い淵(ふち)で深淵(しんえん)だから。家族の迷いの中もみんなそれ。日野原先生ですら、その人間である一面があったということなのかもしれない。自分で正直に、そこらをおっしゃったのかもしれない。」

静子さんは93歳で亡くなった。その最期に、妻から感謝の言葉を直接聞くことは叶わなかった。講演などで交流してきた歌手の加藤登紀子さんは、日野原さんのこんな言葉に心を揺さぶられたという。

「奥様の意識が薄くなっていても、雲の向こうには必ず月はある、雲の切れ目から瞬間的に輝くときがある、その瞬間を待つんですって。手を握ってらしていたときのこととか、やっぱりある意味で、最期の瞬間まで口には出せない、けれども、なんらかの方法で命は輝いているはずだって」

自らの死を見つめて 「死をどう生きるか」

東京オリンピックで聖火に火を灯したいと話していた日野原さん。その後しばらくして体調を崩し、病床での生活を余儀なくされた。当初、自身の死と向き合いきれずにいたという。

「やっぱり未知の部分で自分が体験していないから、『そこにはやっぱり不安と怖さがあるよね』っていうようなことを言ったんですよ。人の死をたくさん見てきて、75年も臨床医をやってらして、そんな思い、やっぱり怖いっていうのってあるんだなと。」
(次男の妻、日野原眞紀さん)。

その後、全身の衰弱が進み、食べることも困難になっていく。主治医を務めた聖路加国際病院の福井次矢院長は、家族の立ち会いの下で、本人に延命治療の意思を確かめることになった。

「3月20日の午後2時半から、もう時刻も決めて伺いました。日野原先生は明確に、管を介する栄養補給、胃ろうを含めて望まないと。さすがにそれを伺ったときには、命に制限があるということを明確にすることでもありましたし、非常に重く受け止めました」

このころ、日野原さんから突然の電話を受けた人がいる。日野原さんが設立した団体「新老人の会」の事務局長、石清水由紀子さん。亡くなる3週間前、「講演会に、もう一度出たい」と連絡してきたという。

「私に何事だろうと思って受話器を取りました。そしたら、『次の講演会はどこなの?』ってお聞きになるんです。『行けるように、これからリハビリをするから』とおっしゃったんです」

講演のテーマは「限られた命をどう使うのか」。もう一度、人々に自分の思いを伝えたい。その一心で日野原さんは歩くためのリハビリを懸命に続けた。

「最後までチャレンジ精神でしたね。それは亡くなる4日前も、聞き取れないことばで、私が『何?』って言うと『体操』って言うんですよ。『足の体操をいつもみたいにして』っていう意思表示だったんですね。だからそれはしましたけど、最後はやはり蹴る力がなかった。それが運動の最後の日でした」(次男の妻、眞紀さん)

一方、主治医の福井院長は、「日野原さんは命が燃え尽きていく自らの姿を、医師としてのまなざしで見続けていたのでないか」と話す。

「ご自身の死を自分のものとしてとらえながら、一方ではそのような自分、死にゆく自分を観察してやろうくらいの、それくらいの客観性と好奇心を持ち続けていたんじゃないか。命の終わりが近づいているということはわかっていながら、そこのところの気持ちはやはり行ったり来たりだと思います」

そして、7月18日。日野原さんは105年の人生に幕を閉じた。感謝の気持ちを伝える最期だったという。

「『ありがとう、ありがとう』の最後でした。子どもたち1人1人に、『じゃあ誰々と話しますか?』っていうと、『うん』って父が言って、それで1人1人にラストメッセ―ジをちゃんと伝えていました。あなたがよくしてくれたということを自分はすごく感謝していると。僕の存在がいなくなったときに、あなたが一番悲しむのは僕にはわかっていると。でもそんなに悲しまないでほしいと」(次男の妻、眞紀さん)

日野原重明さん。死を生ききった人生だった。

この記事は2017年8月1日に放送した「“死”をどう生きたか 日野原重明 ラストメッセージ」を元に制作しています。

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