2011年12月22日 (木)

談志さんお別れの会 上岡龍太郎さんはじめ参列者インタビューです

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21日におこなわれた立川談志さんのお別れ会は、落語家や芸能関係者など約1000人が参列し、ジャズの演奏や、東西の落語家によるエピソードの披露など和やかな雰囲気でおこなわれました。上岡龍太郎さんはじめ参列した方々のインタビューを掲載します。

 

上岡龍太郎さん
 

一般人になって11年になりますから、こんなん(会見)生まれて初めてです。
談志さんとは出会って50年。きょう大阪から来るとき思い出していたんです。
昭和36年の11月11日、新宿の松竹文化演芸場の一階喫茶店でね、
「柳家小ゑんと申します、お友達になりましょう」と言って(横山)ノックさんに声をかけたのが談志さんでした。ノックさんは驚いて「なんでまた友達に~」と言ったら「私は好きな人とは友達になる主義なんです」といってそれからおつきあいさせていただきましたんです。
芸も笑いもものの見方、分析の仕方、人生の生き方、楽しみ方全部教えて下さいました。

 

Q上岡さんが芸能界を引退するとき反対したのでは?
僕は立川流の弟子で立川右太衛門という名前を頂いていました。
市川右太衛門の大ファンでしたのでうれしかったんです。
「上岡龍太郎は引退したけど立川右太衛門は引退していない」とか言われてね。
僕は談志師匠に教えられたとおり、自分は自分の芸に見切りをつけていましたから
何の未練もなく辞められました。

 

Q長い付き合いで談志さんならではの思い出は

それはいっぱいありまして、珠玉のごとき言葉がある一方で、つまらーんことばまで、いっぱいいただきました。
昭和37年の3月に20歳になったときに「いいか『若きウェルテルの悩み』と太宰治の『人間失格』だけは読んでおけ」と言われまして自分も若い人には同じように言うようにしていたんです。それから30年が経って、談志師匠以前にこんなこと言われましたといったら「そんなこと言ったかおれ」と言われましたけど結局その2冊は「人間の業の深さを知れ」と言っていたと思うんですけど。つまらんこともいいはりましたよ、ようけ。
そごうの上の方にあった喫茶店で「こんなに美しくてまずい物は無いな」ってアイスクリームの上にのったチェリーを食べながら言うてはりました。しょうもないことを。「世の中で一番うまい物はチョコレートだ」とかね。
でもすばらしい人、それこそ映画界における黒澤明、漫画界における手塚治虫、芸術界における岡本太郎なんかと並んで500年経っても生き続ける天才だと思います。
一般の人の中にはひょっとしたらそう評価しない人もいるかも分かりませんが、すごいんです、そら。ものすごい人なんです。幅と奥行きが。

僕なんか談志師匠の広い幅の部分のほんの一部分をお借りして、盗んで、ぱくってそれで生活させてもらったようなものですから、談志師匠の幅のほんの一部だけで僕が生活できたくらいですから本人はもてあましていたんでしょうね。その広さ、持っている才能のあまりの豊かさが自分自身で制御しきれなかったのではないですか、というくらいすごい人でした。僕があの人ならとっくに狂い死にしていると思います。あまりのすごさに。
 

Q今年のどを切開してと聞くと
 ノックさんも咽頭がんでしゃべれない、食べれないと同じような苦しみ。しゃべれないのが一番辛かったと思いますね、でも人よりずっといい思いしたんですから、死ぬときに少し苦しめてやろうと神様が思ったんですかね、だから僕は楽~に死ねるのと違いますか。

談志さんは亡くなられたと聞いて余計胸の中に生き生きと生きだしまして、僕はずっと人に囲まれて生きてきましたから、ノックさんがいて枝雀さんがいて、談志師匠がいて、トライアングルの中ですごい僕は快適なんですって言ったら談志師匠は「ウソつけ、頂上にいるつもりだろう」って。談志師匠と会わないとものすごく寂しいんですが会うと三日いると疲れるんですよ。一週間いたらたまらんと思いますよ。時々大阪から訪ねて来て会うとものすごく楽しくて刺激を受けて、あの人のおかげがいっぱいありましたね。

すごい人でした。それしかないですね。生きざまも残したものも、芸人に与えた影響も。もし談志師匠がいなければ生まれていないお笑いの人がいっぱいいると思います。
だから今の人たちに与えた影響はものすごいものがあると思うし、これからもいろんな人の中で生き残っていくと思います。


中村勘三郎さん

僕より年は上だからいつかは、こういう日が来る。
いつも歌舞伎座とか出てるとふらっと入って来て「おう見るよ」っとにやっと笑って・・・。本当にお世話になったし、短い間に語るのには語りきれない。よくほめてもいただいたし叱ってもいただいたけど、訳のわかんないほめ方するんですよ。
「いや、いまのは四次元だ」っていうから「それほめてんの?」っていったら「ほめてんだよ」って。師匠が四次元って言うからほめてんだよなって。
とにかく優しくて、芸の座標軸じゃないけど。平成中村座でも独演会やってくれて、声でなかったけどもう刀抜くところを演じる場面なんかうちの弟子に「よく見ておけ」って
本当にお世話になった。
きょうは世界に4つしか無いものを持ってきた。(扇子に書かれたサインを見せて)
私が勘九郎最後の時に書いてもらったサイン。
それと勘三郎になったときに立川談志と書いてもらった。師匠と俺と全部で4本で貴重ですよ。
おまえも気をつけないと病気になるよって言われてたんだけど、本当になっちゃった。イヤになっちゃうよ。ああいう芸というか狂気というか天才と酒を酌み交わせた時代があったということは、宝です。

本当にご苦労さまでしたと言いたい。
 

Q最後については
チャーミングな人です。放送禁止もあるし。
 

Q歌舞伎もよく見に来てくれた。
本当によく来てくれた。手紙もたくさんもらったし。
 

Q舞台で声かけられたことも。
「うまい」って言われたことあるの。勘平の役で出てきたら「うまい」って。
あれ、この間にこのうまいってかぶせたのは、ただ者の客じゃないぞって客席を見たら、
(談志さんの)バンダナが見えたの。ああ師匠だと思って。


和田アキ子さん


Qひとつき経ちました
 ずっといますから。あんまり、なんで逝っちゃったという感じでもなく夢にも出てきそう。どこかから「おい」って言ってきそう。
 

Q談志さんとの思い出は 

きのうも息子さんから電話があって、思い出を語っていただきたいと言われたが、談志さん自体が女性のアーティストとあんまり付き合いが無かったのでといわれて、女として見てなかったってこと?と文句を言ったのですが、うちに来て一緒に飲んでいただいたり、寝るまでつきあってやるよといわれたり、電話掛けてくるといつも、私の家のあまり人には教えていない電話番号なのに、必ず留守電に「体の大きな歌手の家かい?」って。
「いまどこそこにいるから会ってやってもいいよ」とか言うんです。
おまえにエンターテインメントの歌とか映画とか俺の知っているすべてをこれから時間をかけて教えてやる」って言って、夕方4時くらいからビデオを何本も見せて頂いたりとか。
最後の方は声が出なくて電話しても「あー」とか「うー」とかだったんですよ。それで一週間に一度は電話してて、のどだったらよい医者を知っているとか話しかけていたんですが、奥様に聞いたらご飯ものどを通らないと言うし、たばこはどうしたんですか、と聞いたら「吸う気にならない」。お酒はと聞いたら「飲む気にならない」とおっしゃるんで、その時は私が行ってパンチ入れますから、と言って「ハハ」と笑っていたんですよ。
最後の方は声が出なくて奥様とお話しして、最後は好きな物を持って、おうちに行きます、若手連れて行きますから、といったら奥様に「アッコちゃん、察してね」と言われたので、その時は声も出なかっただろうし、おやせになっていたと思うんですよ。
亡くなられたとき安らかな、息子さんがおっしゃるには、穏やかな顔で、家族全員で見送れたというので、ちょうど一か月前、その時は私ごとですが、芸能界でちゃんと冷静に見てアドバイスをくれる人が叱咤激励してくれる人が少ないので、一か月前はショックでしたけど、泣いたりするのは談志さんにはあわないかなと。
だから私の心の中にいつまでも残っていますし、きょう世間一般で言うお別れもできたので私は悔いは無いです。

 

Q大事な人ですね
いろんなところに飲みに連れて行っていただいた。化粧落としてもらったり、頭はたいたりもしたし、私のジャージ着せたら、普段からやせていらっしゃるので、殿中でござるみたいになって。番組にも昔よく出ていただいて、歌もすごく詳しいんですよ。ジャズとか。この歌い方はちょっと違うなとかこれはよくできているとか。寂しいですけど、年を取らない談志さんがいるので。


高橋英樹さん


またひとつ星が召されたという感じで、我々がいろんな思いを込めて芸を勉強した方ですので。もう50年近い付き合いで、私が日活に入ってすぐですから。
一番思い出に残っているのが、20歳の誕生日に私の家に来て一席語ってくれたんです。
何人か見えて、談志師匠が「おい、ひとり一席ずつ語ろう」ってやってくれたんです。
ここ10年以上はお目にかかる機会が無くて、ちょっと前にNHKで談志師匠が番組を撮ってられて、スタジオに少し顔を出したら「おー、そのまま出ちまえ、出ちまえ」って言われて、何の番組か分からないままに対談をした記憶がありますけれども、そういうフットワークの軽い、それでいて、江戸というものに深い造詣があって、我々時代劇を演じる者にとってみると江戸の情景や風情を落語から勉強することが非常に多いものですから助かりましたね。

実は優しくて皆さんに気を遣う方なのに、外に出ると「わっ」と見せて、もとに戻ると非常に勉強していて、外にこれだけ発言しているから勉強しなくちゃと思っていたのか非常に勉強していて、そういうのをそばで見ているだけでも僕らは勉強になりましたね。

Q声が出なくなると言うのは辛かったと思いますが

演じる者にとっては、ことに声1つで演じ分ける仕事ですので、辛かったと思いますね。
思うに大変だったと思います。

 

Q遺影を見て
 ありがとうですね。同じ時代をともに生きて、僕らにできない破天荒さを世間に見て頂いて、それでいて自分の芸を集中して磨き上げていく、それを同じ時代に我々は僕らは見せていただいたことに感謝の思いでいっぱいです。
 

Q談志さんの芸で参考になったことは
要するにあの軽さというか、僕らどうしても重い芸をやりたがるきらいがありますけれども、落語の中に出てくる人物は非常に軽い、軽さというのがとても役に立ちました。
それを現代は時代劇の中にも大いに取り入れないと重い重い芸になってしまう。もちろん歌舞伎とかも必要ですが、落語という伝統芸能は時代劇を目指す我々にとっては非常に役に立ちました。


Q特に談志さんの落語をどのようにご覧になっていましたか
勉強していましたよね。僕は小ゑんさん時代からのおつきあいでご苦労なさっているのも見てますし、それと明るく楽しくみんなで大いに遊び、飲んだ記憶もたくさんあるんですけれども、やっぱり、あの演じ分けといいますか、あと人を惹きつける、俺がやっているんだから見ろよっみたいな大胆なまでの惹きつけ方。あれはちょっとすごいなと思いましたね、そういう部分が役者も必要なんだと思う時期がありましたね。
 


ダンカンさん
 

30年前に師匠の所の門をたたかしていただいて、ダメで、ろくでもなかったんですけど師匠が置いてくれなかったら俺いないわけですから。だから、師匠ずっと落語は人間の業の肯定だ、ろくでなしがいて、酒飲みがいて、女たらしがいて、それもみんな人間だから、すべてそいつらもいなきゃいけないって。そのカスみたいなのが、俺でね。師匠の言っている業の肯定のカスが俺ですからね、うん。

 

Qでもこんなに早くお別れが来るとは思ってなかった
そりゃ思ってなかった。夏のご挨拶に根津のマンションに行ったときに実はこっそり合わせて頂いて長女の弓子さんが、ちょっと会ってくれって。師匠大丈夫だよ、って。師匠みたいに悪口言う人がいなくなったらつまんなくなっちゃうからって。そこでもよく考えたら俺はしくじっているんです。もう師匠声が出ないんですから。

 

Qその時の姿様子を見ておしまいと思われた
おしまいとは思わない。すごいわがままな人ですから誰かの声帯を移植してやるんじゃないかなあと復活して欲しいなあという気持ちありましたけど仕方ないですけれどもね。

 

Q一番思い出に残っているのは30年前
思い出はいっぱいありますよ。そりゃあ。談志師匠にこの馬鹿野郎がって言われて、ウイスキー2本持ち上げられて、ぶん殴られると思っていたら「たけしのところに段取り付けてやるからおまえ行ってこい」って。本当にクビで捨てられていいようなことなのに、ありがてえ話ですよ。だから談志師匠、たけしさん足を向けて寝られないですよ。
 

Q優しい方ですね
今になって気がつきますけど。当時は殺してやろうかと。
みんなで、来れば良かった。

 

Q殴られるようなこともあった
うん、どなりつけられるとかしょっちゅうでした。
 

Qこんな落語家は出てこない
落語家というか無理ですよ。時代が許さないでしょ。昔は破天荒で政治家も吉田茂首相が亡くなられたとき本妻とおめかけさんが、一緒に葬式を出した、さすが甲斐性があると言われたけど今はそれは無理です。
 

Qダンカンさんにとってはどんな存在
悔しいのは怒ってくれる人が、ここ最近の師匠は会っても優しくなって、がんばれよとか、たけしのこと頼むなとか、ほめられるまでは行かないまでも。「師匠怒ってくれよ」と昔みたいにどやしつけてくれ。怒らないというのはつまんないですよ。
 

Qダンカンさんのことを認めたのでは
認めてない、認めてない。認めていたら、俺いる意味がない。ずっと文句言われ続けて今回集まっている人は師匠になんか言われたい、でも、本当に突き放したりしないから。
いてもいいぞ、まだって人だから。

 

Qこれまでの師匠のことば
これは実践しているんだけどね、悪いやつになれって言われたの。例えばおまえは悪いっていううわさがたったら否定するなって。悪いって言われたら、あいつは悪いんだよってどんどん雪だるま式に世の中が広めてくれるっておまえの名前を。
いい顔するばかりだと大変だぞって。だから悪いやつになれって。これはいい言葉だなと思って実践しています。

 

Q会場で元気なところの姿を見ると
元気なときの思い出というのは胸の中に残っていますし。
師匠自体が悪い人ですから。この1か月の短い間に独裁者がふたりも亡くなってますから。今年はカダフィとか重要な年ですから、そんなふざけたこと言っている方がいいんですよ。(泣くまねをして)談志師匠様が・・・ってどこかの国みたいなことできないですから。俺もくだらなく師匠の人間の業の肯定で芸能界ついていきますから、天国で・・・と言いたいところですが、師匠人の悪口ばっかり言っていたから天国言ってないですもん、
(下を指して)こっちでしょう。いいにくいんで。

 

Q天国じゃない
いや世の中許さないですよ。あと志の輔に談志つげっていったんですけどね。まあいいか。
 


三遊亭円楽さん
 

訃報を聞いたときにコメントいっぱい頼まれたけどずっとできなかった。それくらい思い出が多いし、マスコミの皆さんに申し訳ないけどひと言では語れない、お別れ会でコメントを壇上も含めてお話をさせていただいたんですけど。
とにかく受けたものが大きすぎてまあ2人父親がいるとしたら、うちの師匠(先代の円楽さん)と談志師匠。両方とも偏屈ですけれども。

Q円楽さんの襲名の時に壇上であいさつ。
嬉しかった。談志師匠が僕のことを言ってくれてうちの師匠のことを一切言わなかったというのが談志流のお悔やみだったと思うし。ただうちの師匠が亡くなって告別式終わってすぐ談志師匠の所に行ったら「円楽は背負うものが大きかったなあ」と言ってくれた。その言葉で僕は十分だった。(自分の襲名で)披露目も出て頂いて、新橋演舞場にも出て頂いて最高のうちの師匠への送りを僕を通してやってもらった。本当にかわいがってもらったからね。宝物なんですよ。「円楽一門の中で楽太郎、おまえが一番いいぞ」っていう色紙もらったの。兄弟子の前で書かせたの。兄弟子が「それを止められないのが悔しい」と言ったくらい談志師匠にかわいがってもらったから、のべつお伺いすると何でそばにくるんだ、って「好きだから」と言ったら「くせえな、よいしょやろう」って言われて。でもよいしょやろうといわれたらうれしいもんね。

Q師匠も談志師匠も亡くなられて
どこも世代交代していくんだけれどもやっぱり自分のついていた人が亡くなるとね。
まだだって怠けたいもん。怠けられなくなったね。これ。

 

Q談志師匠の言葉で心に残っていること
いっぱいあるなあ。会う度にいろんなこといってくれたし。ただね、ハワイでご一緒したんですよ。ご旅行のお手伝いをして楽しんで頂いて食事終わっておかみさんと弓ちゃんとみんなでご飯食べて「勘定」って談志師匠が言って「楽ちゃん払った」って、「なんでおまえ払った」って言われたので「立川談志におごりたかった」って言ったら「おまえならおごらせてやる」って。それが、俺の体を認めてくれたのかなって。
なんかあると電話をもらっていたし襲名が終わったらいっぱいやろうよと言っていたので、ことしの3月に電話したんですよ。息子さんが電話に出て「ちょっと胃潰瘍で入院するんで」って。それが結局、胃ろうの状態。おかみさんに今聞いたら「ごめんね、ちょっと伏せてたから」って。だからご苦労が一門、おかみさんみんなあったと思う。
でも飲みたかったな。噺のこともいっぱい教えてもらいたかったし。
一番嬉しかったことはあるとき「楽太、おまえに俺の落語の財産を半分やる」って言われたの。全部じゃないとこがいいね、けちだね。でも半分くれるっていったの。
おまえは俺のことが分かっているだろうというのが言外にあったからね。
だから、もうひとつ嬉しかったのは「俺のまねをするやつはいっぱいいるけど、みんな形だよ、でもおまえは了見をまねているな」て言われたんですよ。俺は先代の弟子だったけれども談志師匠にあこがれていたから、ものまねやるとイタコじゃないけど降りてくるのよ、談志師匠が。それもできなくなっちゃった。この前も高座で、元気な頃の談志、機嫌のいいときの談志、機嫌の悪いときの談志、声が出なくなった談志っていろんな談志やったの。それも結局は本物いるからできるわけで、本物いなくなっちゃったから。でも確実に談志師匠のDNAは、いろんな人に受け継がれているから。そのDNAっていうのは、芸風だけじゃなくて落語に対する考え方、いつも、先人が亡くなると時代が終わったと言うけれどそれは皆さん方のウソ、僕の中には談志がつながっているし、円楽がつながっているし、その上の円生だの、小さんだの、志ん生だの、つながっていく芸だから、いい意味でもってかき回してくれた師匠だし、とてもありがたい師匠がすばらしい財産を残してくれて、そして、お疲れさまと言ってあの世行っちゃった。でも残した物は僕ら受け継いでいくから。

落語界って無くならないし、落語が好きだった師匠だしそれをやっていかなくてはならない。立て続けだからね、円楽襲名、談志師匠が亡くなって。その上の世代にあこがれたけど実際指導受けたのはあの世代でしょ。それがなくなってしまって、でもいい若手いっぱい出てきているんですよ。談志師匠が残してくれた物をちゃんとバトンタッチしなくてはいけないという気持ちがどんどんわき起こって、負けちゃいけないし、すごい勉強家だったから、ただ両師匠とも自分の得意な方に持って行くのが得意だから。
悲しいけどお送りして、心の中で生きているし思い出いっぱいあるし、それを引き継いで渡したい。ジョイントする役ですから。
いろんな意味で業界同士、連絡取り合って、東京の落語界を一生懸命盛り上げていきたい。東西交流も盛り上げて、落語は日本人が作った最高のエンターテイメントだと思っているから実演者としてやっていきます、それが恩返しだと思いますので。
立川談志流の落語を自分の中で咀嚼してやっていくことが大事だと思います。

 


毒蝮三太夫さん
 

Q一月経ちましたが
だけど一月経ちましたよね、昨日も談志の特番みたいのをね、撮りましたりね、
いろいろ週刊誌が来ていただいたりして、やっぱりあいつはすげーやつだったんだなというのがね日に日にね、いろいろと今年はいろんな方が亡くなるでしょ、大きな独裁者が亡くなっていますよね、ある意味ではあいつは独裁者の仲間入りなのかなというね、感じがしますよね。
はっきりいっておれはね、いちばん長く58年の付き合いでしたからね、
いちばん深い付き合いで、そんなんでね、いちばん本当はいちばん悲しいいちばん悔しい、いちばんむなしいんですけどね、きょうのお別れの会見てもわかるようにね、デキシーの曲でみんなが楽しんでくれたり演芸があったり、明るくやって俺の三本締めでしめることで、いちばんあいつらしい、いちばん良いおくり方をしたんじゃないの。それから家族がね本当に6月以降ばたっと彼が歩けなくなって、治療介護ということになって、すっかりね家族の絆って言うかな、文字通り本当に絆を絵に描いたような8ヶ月だったっていっていますよ。
娘もせがれも奥さんも、彼がパパとなりだんなとなってね、本当に病気になったおかげでわっとなった。それと彼もともとね、本当はやさしいね、本当は異端児とか風雲児とか天才とかっていわれる看板をしょわされちゃったんですよね、非常に彼はそれを演じていた部分がありましたね。だから最後は家庭で療養してね、闘病して奥さんやなんかに本当の彼を見せたんじゃないか。本当はね、ぬいぐるみを抱えていたりね、それを棺の中に入れたらしいんですよ、で、あの奥さんが入院したときにね、病室の前で言ったり来たり言ったり来たりしてね。あの立川談志がですよね、いったり来たりしてじっとしていられない。

いやーおれも世話になったけど、本当はいちばん楽になったんじゃないですか。75でおれも同い年だから、75だと若い若いという人が多いんですよ、でも若くないですよ。あいつは普段からふとした病で死にたいって言っていたのね、ふとした病というのは良いよなって。で病にかかって喉頭がんとか食道がんやって。彼いろんなところから悪くなってそれでやせ細って、それでいろんな意味で最後はいちばん近しい人でも見せない、見舞いに来ないでくれって言ったの。だからある意味では声が出なくなった、そして自分の言いたいこともいえない、筆談って言ったってなかなか思うようにかけない。ある意味では無様な最後だったんですよ、落語家としてね。かっこよくないんですよ、それを見せないできょうの会があったんですよ。だけどかっこよくない無様なかっこというのがある意味ではかっこいいんですよ。それが本当の松岡克由というか立川談志が見せられたし、まあおれは昔からそういうところあるなって知っていましたからね、だけど名人上手というあんなにわっとなっちゃったらそれを演じ続けたんでしょうね。

あと何年か生きながらえたらと、彼よく言っていましたよ。老いるということはしょうがないことだ、だけど老いる自分を人様にさらすのはつらいよって言ってましたけどね、それをさらさないで、いっちゃったというのはね、非常に潔くて彼らしい幕切れでね、うらやましいですよ。だから俺は彼の男だったら80歳が平均寿命ですから、あとそのくらいは俺が生きてやってね、彼のことをいろいろと伝えてあげてえなと。そういう気持ちが強いですね、だけど落語というのを身近に皆さんの前でさらけだしてくれたり、優秀な弟子をあんなにつくったりという彼の功績は大だね。国民栄誉賞という話もね、なかったんですよ。またね、もしかねあったとするよ、あったとしても彼は受けなかったんじゃないかな。浅草の公会堂の前にね、スターの手形というのあるの知ってる?たまたま7~8年前に俺も言われたんですよね、であるんですけどね。彼もそのときに依頼があったんですよ台東区からね、で師匠の手形を置いてくださいよっていったら、あいつが二言目にね、「冗談じゃない馬鹿やろう、俺が手形を出せるか、俺のは不渡り手形だ」ってことわっちゃったのよ、だからないんです。そんなところを考えると、国民栄誉賞とかなんとかあったとしても。功績はあるんですよ、だけど決してあいつに上げようと政府も役人もいないだろうし、そういうこといったら馬鹿にされるだろうし。ふさわしくいない、そういうことにふさわしくないやつですよ。でも今日見てもわかるように各界の歴々がね、慎太郎さん初めにね、政界、財界、演芸界それから芸能界ね、いろんな人が来てくれて。いいやつを友達にしたと思うね、得しましたよ。随分得した。おれもいあいつに返してあげましたけどね、金も借りましたよ。日大でるときに5000円借りたんですよ、月謝が足りなくて。そしたらあいつね、4分の利息引いて4800円くれたんですよ。200円減ってんだよ。その4800円を借りてね、5000円で卒業できたんだけど、そうしたらあいつがおれが卒業させたって、いってますけど、いろんなところでおちゃめ、おちゃめで面白がって、高杉晋作の言葉じゃないけど「面白きこともなきようにおもしろく」というそういうざれ歌がありますけど、そういうにしたやつじゃない?だから面白おかしくあの世で閻魔様だましてるんじゃないの。うん。呼びにくんなよって。
 


爆笑問題

O:太田光さん T:田中裕二さん
 

T:まだお別れできていないというか今ちょうど生放送が終わってきたところで、
O:もう1つ玉をとることに。
T:そういうことじゃないです。そういう空気じゃねえのわかるだろ。大体わかるだろ。サンデージャポンじゃねえんだから。まだ実感なくてあのちょっとご家族の方とも一瞬御挨拶できたくらいなんで。

 

Q:去年忘れられない出会いがあったとか。
O:あの食事会のときに、たけしさんと談志さんとずいぶんお会いしていないということでしたんで、師匠が談志師匠がたけしさんに会いたい会いたいって言っていたんで、僕が一席設けてあいつらにおごったんです。
T:あいつらじゃねえだろがよ。
O:そのときも談志師匠が本当に楽しそうで、最後恩返しができたかなって今思いますね。

 

Q:談志さんにどんなことを教わったのですか
O:あの覚せい剤の打ち方とかね、本当に注射をこう入れろって言われて、本当にそうなんです。ほとんど公表できるようなことは教わっていないです。あとが芸に関しては本当なんていうんですかね、僕は理解できないくらいイリュージョンであるとか肉体と精神のことであるとか、なんていうかなレベルが高すぎちゃって、僕はわかったふりをしてはいはいと聞いているだけだったような、何にもできていないっていうような気がしますけどね

 

投稿者:かぶん |  投稿時間:12:51  | カテゴリ:文化のニュース
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ありがとう、NHK!
各局のワイドショーではちょっとしか映ってなかった参列者の方々のインタビューを全文紹介してくださって、本当にありがとう。
芸能ニュースなのに結局NHKがいちばん詳しく情報発信してるのがなんか皮肉ですね(笑)。
ダンカンさんや爆笑問題の際どいコメントも丸ごとUPしてるし、
民放(のワイドショー)役に立たねぇ~なぁ~(笑)。
上岡さんのコメントの「自分は枝雀さん、ノックさん、談志さんのトライアングルの中にいた」っていうの、よく「EXテレビ」や「パペポ」で仰ってましたよね。
私は上岡さんのファンなので、談志さんの落語は好きだったけれど、談志さんの“凄さ””素晴らしさ”は上岡さんの発言を通して知ったかもしれないなぁ~って思いました。
この記事、プリントアウトして保管しとこ~っと!

投稿日時:2011年12月22日 22:51 | 更紗

爆笑問題さんのインタビューの部分で、
「植樹会」というのは「食事会」の間違いですよね。
「しょくじゅかい」じゃなくて「しょくじかい」ですよね(笑)
プリントアウトして読んでいて発見しました。

投稿日時:2011年12月23日 06:55 | 更紗

ありがとうございます。
テレビですと編集されたコメントしか見られませんので、全文掲載していただけると助かります。

投稿日時:2011年12月23日 10:30 | かつき

>植樹会
食事会ですね。

投稿日時:2011年12月23日 12:05 | ウインズ


 受信料もとがとれたな この記事で いい仕事!

投稿日時:2012年04月04日 19:47 | 匿名

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