2016年05月16日 (月)

蜷川幸雄さん告別式 俳優5人の弔辞全文

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蜷川幸雄さんの告別式でゆかりのある5人の俳優たちが弔辞を読みました。その全文です。

平幹二朗さん

「とうとうこのときが来てしまいました。ハムレットの稽古初日、やせ細って車いすに座るあなたの声の弱々しさに胸が震えました。でも、だんだん稽古が積み重なるうちに、とても大きな声で怒鳴り散らすあなたの姿に、パワーが蘇ってきているとうれしく思っていたのに。
薄れ行く記憶を呼び戻せば、芝居で出会ったのはあなたが40歳、私が42歳、三島由紀夫作、卒都婆小町の99歳の老女を僕が演じたときでした。千秋楽が近づき、この人とは長くつきあうだろうなという予感がしました。事実それから40年。不本意なブランクの10年もありましたが、『王女メディア』『近松心中物語』『タンゴ・冬の終わりに』『テンペスト』『リア王』などなど、あなたと四つに組んだ17本の芝居。僕の宝です。充実した演劇人生を生きることが出来ました。本当にありがとう。
でもあなたは一度も僕の演技を褒めてはくれませんでした。シャイだと言うことは分かっていましたが、僕は何とかあなたから褒めことばを引き出したく、熱演に熱演をつづけました。肺を痛めてしまうまで。本当はもう少し理知的に演じれば良かったかも知れません。でもあなた中の怒りと熱情に突き動かされ、僕の中のマグマが燃え上がってしまうのです。その火はまだ消えてはいません。あなたがいなくなったあと、この炎(ほむら)を誰に受けとめてもらうのか。まるで、シャーロック・ホームズに死なれたワトソンのように、途方に暮れています。ドラマのシャーロックのように、生き返って欲しい。でも今はあなたの怒りと、熱情を安らげて下さい。さようならは言いません。『タンゴ・冬の終わりに』のなかの一説をささげます。『ぼくらはまた、近いうちに、再会する』蜷川幸雄様。2016年5月16日。平幹二朗」。

大竹しのぶさん

「蜷川さんへ。『俺さあ、日常捨てたから。俺さあ、まだ枯れてないよ、だからさあ、もう1本芝居作ろうよ』。すばらしかったリチャード二世の観劇後の私に、蜷川さんがおっしゃって下さった言葉です。そしてその言葉通り、リハビリする時間があるなら稽古場へ行きたいとおっしゃり、その後も何本も芝居を作り上げました。本当にすさまじいエネルギーと信念で最後まで走り続けられました。こうしている今も、私は蜷川さんに出会えた喜びと感謝の言葉しか浮かんできません。稽古場に響き渡るあの怒鳴り声。他では決して味わえることができない、あの心地よい緊張感。いい芝居をしたときに見せてくださるあの最高の笑顔。それらはこれからの私の演劇人生の中で色あせることなく輝き続けることでしょう。
蜷川さんにもう会えないことが知らされたあの夜、『身毒丸』で一緒に出演していた、当時小学生だった男の子からメールが届きました。『しのぶさん、僕悲しいよ。僕ね、早く大人になってもう一度蜷川さんの芝居に出たかったの』。どれだけ多くの人がそう思っていることでしょうか。
マクベスで初めて海外公演を経験させていただいた時、本番前の劇場の客席を、私は嬉しくて走り回っていました。自分という人間を知らない人たちの前で、純粋に芝居ができるという喜びでいっぱいでした。そんな私を蜷川さんは本当に嬉しそうに見て言いました。『ねえ、俺がさ、海外に出る理由わかる。いつも勝負していたいんだ、客観的なところに自分を置いて、追い込まないとさ、ダメになっちゃうだろ』。蜷川さんのそんな思いが、日本と世界をつなげているんだということを実感しました。
9日にお見舞いにうかがったときも、苦しい呼吸の中で必死に生きようとしていらっしゃいました。『まだやれる、まだ作りたい芝居があるんだ』。そんな声が聞こえてくるようでした。目の前のテーブルには、今年作る予定だった台本が3冊置いてありました。『蜷川さん、稽古場でお待ちしています』。私は少しだけ大きな声で話しかけました。するとその瞬間、はっきりと目を開けてくださり、私たちは数秒間、見つめ合いました。そうなのです。稽古場にいなくては、劇場にいなくては、蜷川幸雄は蜷川幸雄ではないのです。今あなたがいなくなって、私たちはこれからどうすればいいのでしょうか。でも私がニューヨークで走り回ったように、劇場という場所には、そのちりにさえ先人たちの魂が宿ると言われています。あなたの魂の叫びは、今世界中の劇場に、それを見た観客の心の中に、そしてもちろん私たちの中に、永遠に残っていきます。それを胸に私たちは、芝居を続けるしかないのです。『どうだ』と、蜷川さんがいつふらっと稽古場に現れてもいいように、一生懸命演劇を続けていくしかないのです。だから蜷川さん、稽古場でお待ちしています。いつも、いつの日も。本当にありがとうございました。親愛なるニーナへ。2016年5月16日。大竹しのぶ」。

吉田鋼太郎さん

「蜷川さん、おはようございます。松戸でテレビの収録をしておりまして、3分ほど遅れましてすみません。僕がこんなに超売れっ子俳優になったのは蜷川さんの責任です。責任とって下さい。しーんとした稽古場は嫌だけど、つまんないジョークに笑わなくていいぞと、蜷川さんがそういうお顔をしていましたね。
蜷川さん、そちらに行ってしまわれる前に、『尺には尺を』の稽古場を訪ねて、稽古を見学させていただき、そのあと竜也と落ち合って、お見舞いに行かせていただきました。そのときの蜷川さんの姿を見た竜也の顔が忘れられません。母犬とはぐれて、雨の中で行き場を失った子犬のような顔をしていました。耳元でしゃべりかけると、苦しい息の中、何とか手を動かして応えようとしてくださいました。『テンペスト』やろうといったじゃないですか、プロスペローやらせてくれるって言ったじゃないですかって、僕が言うと、少しだけ目を開けようとしてくださいました。それは、渾身の力を振り絞るように見えました。蜷川さんはずっとずっと闘い続けてきて、まだベッドの上で闘おうとしていらっしゃいました。僕には到底、出来ないことだと思いました。
棺にお入りになってからの蜷川さんのお顔を僕は見ていません。ベッドの上で闘う蜷川さんの顔を、目に焼き付けておきたいからです。でも、とても安らかで美しいお顔をしていると聞いています。きっと、そちらに行く前の蜷川さんの目には、平さんや、大竹さんや、りえちゃんや、そんしょうや、勝村や、阿部ちゃんや、桃李や、小出や、松本潤や、淳平や、新川や、塚本や、二反田が、きっとずっとみんなが集まってみんながずらっと並んでいて、蜷川さんのキューを、ワクワクドキドキしながら待っている。蜷川さんがいつものように少し甲高い、よく通る声で、「いいかい、いくよー、用意ドン!」って言ってる姿が、風景が蜷川さんの目に映っていたのではないでしょうか。もう少ししたらいきます。シェークスピアも混ぜてやって、一緒に芝居つくりましょう。もう少し待っていて下さい。吉田鋼太郎」。

小栗旬さん

「昨日の晩、鋼太郎さんが『蜷川さんは台本を持つのが嫌いな人だから、俺たち弔辞は読まずにいこう』と言ったのに、今日、鋼太郎さんが読んでいたので、僕も読ませていただきます。僕がこんなところに立って蜷川さんに何かを言うんだって。きっと『バカ小栗、お前に言われることなんて何もねーよ』と笑われちゃいますね。いろいろ考えたんですが、あまり堅苦しくても、くだけすぎても怒られそうなので、なんとなくいきます。
蜷川さん、どうします?予定していた僕との公演。嫌われて、俺も勝手に嫌って、仲直りしてもらって、やっと一緒にできると思っていたのに、あんなにしっかり握手もしたのに、約束したのに、悔しいです。蜷川さんと過ごさせて頂いた日々のことをたくさん思い出していました。なんででしょうね。輝かしい思い出の日々のはずなのに、怒られたことばっかりが出てきます。本当にお前みたいな不感症とは二度と仕事したくない。下手くそ。雰囲気。単細胞。変態。はぁー、君おじさんになったね、なんかデブじゃない?デブだよ、デブ。なぁ、りえちゃん、そう思わない?ピスタチオみたいな顔。あ、この最後のは竜也にいわれた言葉でした。もっとうまい文句もいろいろ言われたのですが、そのへんは右から左に流していたので忘れてしまいました。
先日、もう会うこともできなくなってしまった晩、いてもたってもいられなかった数人で集まり、蜷川さんとの思い出話に花を咲かせました。そのとき、『やっぱり僕らは蜷川幸雄という人間を中心にした、大きな劇団の一員だよね』という話になりました。本当にそう思います。なぜなら、それぞれが蜷川さんの優しさと気配りと、そのあとの思いやりを感じているからだと思います。僕をこの劇団に入れてくれて、『なんでみんな、小栗のかっこよさに気付かないんだろうな。大丈夫、絶対俺が伝えてやる』といって、見たこともない数々の景色に連れて行ってくれて、信じてくれて、ありがとうございました。
今、僕がこの場所にこうやって立っているのは、間違いなく蜷川さんの劇団の一員にしてもらったおかげです。まだ僕はちょっと若いので、会いにいくのは多分まだまだしばらくかかってしまうと思いますが、僕が会いにいくまでに、そっちで新しいハムレットの演出を考えておいて下さい。その日に、『だめになったな』といわれないように、僕は僕でこちらで苦しんでみようと思います。でも不安だから、時々でいいから、こっそり夢にでも叱りに来て下さい。待っています。休むのが嫌いな蜷川さんだったから、きっとゆっくりなんてしていないだろうけど、少しはゆっくり休んで下さい。僕の生意気をいつも受け止めてくれてありがとうございました。とことん踊らせてくれてありがとうございました。道を照らし続けてくれて、本当にありがとうございました。小栗旬」。

藤原竜也さん

「『その涙は嘘っぱちだよ』と怒られそうですけど。短く言ったら長く言えと怒られ、長くしゃべろうとすれば、つまらないから短くしろって怒られそうですけど。まさか蜷川さん、今日僕はここに立つことになろうとは、自分は想像すらしてませんでしたよ。最後の稽古というかね。この場で。蜷川さん弔辞。
5月11日、病室でお会いした時間が最後になってしまうとは、ごめんなさい。本当に申し訳ないです。
先日ね、公園で1人、ハムレットの稽古の録音テープを聞き返してみましたよ。恐ろしいほどのダメ出しの数でした。瞬間にして心が折れました。『俺のダメ出しで、おまえに伝えたことはほぼ言った。今は全て分かろうとしなくてもいい。いずれ理解できる時が来るからと。そしたら少しは楽になるから。アジアの小さな島国の、ちっちゃい俳優になるなと。もっと苦しめ、泥水に顔を突っ込んで、もがいて、苦しんで、本当にどうしようもなくなったときに手をあげろ。その手を必ず俺が引っ張ってやるから』と。蜷川さん、そう言っていましたよ。
蜷川さん、悔しいでしょう。悔しくて泣けてくるでしょう。僕らも同じです。もっと一緒にいたかったし、仕事がしたかったです。こんなにも蜷川さん、たくさんの先輩方、同志の方たちがたくさん来ていますね。蜷川さんからの直接の声はもう心の中でしか聞けませんけれども、蜷川さんの思いをここにいるみんなでしっかりと受け継いで頑張っていきたいと思います。気を抜いたら、ばかな仕事をしていたら怒ってください。
1997年、蜷川さん、あなたは僕を生みました。奇しくも蜷川さん、昨日は僕の誕生日でした。19年間、苦しくも、まぁほぼ憎しみでしかないんですけどね、蜷川さんに対しては。本当に最高の演劇人生をありがとうございました。蜷川さん、それじゃまた」。

投稿者:かぶん |  投稿時間:18:36  | カテゴリ:文化のニュース
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