2016年05月17日 (火)

"革命児" 蜷川幸雄さん 足跡と実像

今月12日、世界的な演出家、蜷川幸雄さんが肺炎による多臓器不全のため80歳で亡くなりました。独自の解釈と斬新な演出で”演劇界の革命児”とも呼ばれ、長年にわたって数多くの舞台を作り上げてきた蜷川さん。その足跡と実像について蜷川さんを追いかけてきた科学文化部・山室桃記者がお伝えします。

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今月16日の告別式には俳優や舞台関係者など数多くの人たちが参列し、蜷川さんの遺影を前に最後の別れを惜しみました。告別式では、ゆかりの深い俳優たちが弔辞を述べ、このうち15歳の時に蜷川さんに舞台の主役に抜てきされた藤原竜也さんは「もっと一緒にいたかったし、仕事がしたかったです。本当に最高の演劇人生をありがとうございました」と涙を流しました。

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アングラから大劇場へ

斬新な演出で次々と新しい道を切り開いてきた蜷川幸雄さん。演出家として本格的に活動を始めたのは昭和44年、33歳のときでした。大学紛争の嵐が吹き荒れるなか、いわゆる「アングラ演劇」と呼ばれる新しい演劇が生まれ、唐十郎さんや寺山修司さんが若者たちの間で熱狂的なファンを生み出していました。 
そんな中、蜷川さんは演出家としてのデビュー作、「真情あふるる軽薄さ」を手がけ注目を浴びます。この作品で蜷川さんは、機動隊員に扮した50人もの俳優に客席を包囲させ客につかみかからせるなど過激なまでの演出を見せ、体制を批判しました。公演は連日満席。伝説的な舞台として今も語り継がれています。

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その後も、ともに劇団を旗揚げした俳優の蟹江敬三さんや石橋蓮司さんらと次々に鮮烈な舞台を手がけ、演劇ファンに大きな衝撃を与えました。

追い求めた理想の現代劇

そんな蜷川さんがアングラの世界を飛び出し商業演劇の舞台に挑んだのは、昭和49年、38歳の時。今では蜷川さんの真骨頂とも言われるシェークスピアの戯曲を大劇場で初めて手がけることになったのです。 
演目は「ロミオとジュリエット」。主役のロミオを演じたのは歌舞伎俳優の市川染五郎、今の松本幸四郎さんでした。幸四郎さんは今回、NHKの取材に応じ、当時をこう振り返りました。 
「蜷川さんはよく、こんなことを熱く語っていたのを覚えています。『たとえ西洋の古典作品だとしても日本人の演出家が作って日本人の俳優が日本語でやるんだから、赤毛のカツラをかぶって演じてはだめだ。日本人の観客に通じる“現代劇”にしないといけない』と」。

蜷川さんが目指したのはそれまでの伝統的な舞台とは全く異なる新しいシェークスピアでした。幸四郎さんはそんな蜷川さんに必死に向き合います。「“日本の現代劇”にこだわる蜷川さんの期待にどう応えようかとそのとき、僕なりに考えた演出があるんです。稽古で、ロミオ役の僕は花束を持って客席の上から舞台に向かって思いっきり走ったんです。客席にいる蜷川さんの横をすり抜けて。それを見た蜷川さんはとても喜んでくれました。『こんな俳優がいるならこれから大劇場でもやっていけそうだ』と自信を持ってくれたんです。幸運にも灰皿は飛んできませんでした」。

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これ以降、蜷川さんはシェークスピアの戯曲を次々と上演し、舞台を“蜷川色”に染め上げていきました。昭和53年初演の「ハムレット」では、舞台に設置したひな祭りのひな壇に俳優たちを並ばせ日本の古い階級社会を表現したり、昭和55年初演の「NINAGAWAマクベス」では、物語を日本の安土・桃山時代に置きかえ舞台全体を仏壇に見立てるなど日本的な要素をふんだんに取り入れました。「NINAGAWAマクベス」は国内のみならずシェークスピアの本場、イギリスやショービジネスの中心地、ニューヨークなどでも公演を重ね、蜷川さんは「世界のニナガワ」として世界中の演劇ファンを圧倒しました。

その後も蜷川さんのシェークスピアの舞台に出演した幸四郎さんは、蜷川さんのことを「アルチザン=職人」だと言います。「真の意味で優れた演出家というのは、俳優の演技だけでなく舞台の照明や小道具といったありとあらゆることを職人のように学んでいなければなりません。蜷川さんは単なる演出家ではなく、世界を見据えたアルチザンだったと思います。そんな蜷川さんに出会えて本当に幸せでした。僕にとって、彼はかけがえのない“戦友”です」。

最後まで挑戦

晩年、蜷川さんは病気と闘いながらも舞台にかけるその魂は衰えることはありませんでした。年間、何本もの舞台に精力的に取り組み、出身地である埼玉県で無名の若い俳優や高齢者で作る劇団を創設しました。「マグマ」、「炎」と例えられるほどの熱い情熱で蜷川さんは最後まで挑戦を続けました。

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当時の姿をつぶさに見てきた報道局の久木元太ディレクターは蜷川さんの素顔を次のように振り返ります。

私はかつて狂ったように蜷川さんの番組や企画を作っていた。なぜか。蜷川幸雄は″麻薬″なのだ。ものすごい中毒性がある。 
俳優に怒声を飛ばす蜷川さん。われわれ撮影クルーにも容赦なかった。ディレクターの私は″才能の無い演出家″、カメラマンは″監視カメラ″、音声マンは″盗聴者″と罵倒された。「撮るんじゃねえ!」とカメラを途中で止めたり、インタビューの途中で怒って席を立ったりすることもあった。毎日ロケが終わると心はズタズタになり、翌朝、さいたま芸術劇場の駐車場に蜷川さんの車を見つけると吐き気を催すくらいだった。

なぜ、蜷川さんはそこまでの熱量で俳優、そして、われわれにも対じしたのか。それは、とことん真摯に人と向き合おうとする蜷川さんの生き様の表れなのだろう。真摯(しんし)だからこそ本気で怒る。通院しながら、稽古場に血圧測定器を持ち込みながら怒り続ける姿は、とにかく壮絶だった。誤解の無いように言っておくが、上述した蜷川さんのわれわれへの厳しいことばや言動は、理由があってのことである。私も人間・蜷川幸雄に迫りたいから、当然知りたいことや言いにくいことも蜷川さんにぶつけていく。その真剣勝負を、本気で、われわれのような常人の想像をはるかに超えるくらい本気で受けてくれたのだ。

なかでも忘れられない記憶がある。あまりにも言われっ放しで悔しくて、思わず蜷川さんに「演劇と違ってテレビのドキュメンタリーには台本なんてないんです」と、失礼な口を叩いたことがある。蜷川さんは烈火のごとく怒った。「二度と来るな」ということばとともに、私の心に突き刺さったのは「他人に答えを聞いたらおしまいだよ」ということばだった。″世界のニナガワ″と呼ばれ、どれだけ地位や名誉を手に入れても、蜷川さんは誰も想像できないような新たな挑戦をし続けてきた。答え、つまり到達点を決して定めることはなかった。その夜、私は蜷川さんに誠心誠意の手紙をしたためた。翌日、「こんなもん読まねーよ」と言いながらも、そっと鞄に入れてくれた。

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もう蜷川幸雄の顔なんて二度と見たくない。番組が終わると毎回そう思っていた。でも、しばらくするとまた蜷川さんに会いたくなる。また本気の真剣勝負をしたくなる。だから、蜷川幸雄は″麻薬″なのだ。それは、俳優だけでなく、私も蜷川さんに育ててもらっていたからだろう。

2011年、文化勲章の祝賀会に私も招待していただいた。約700名のそうそうたる面々を前にマイクを持った蜷川さんは、「NHKの連中は俺が怒鳴り散らしているところばかり放送する。あいつらのせいで、俳優たちが俺と仕事したくなくなるんだ」と、なかなか笑えないことばを並べたうえで、最後に一言、「まあ、感謝してるけどね」と言ってくれた。そしてその後、会場で握手を求めてくれた。この手を握ったら負けになるのでないかという、くだらない一瞬の戸惑いのあと、初めて握ったその手は、荒々しくもどこか温かかった。
″才能の無い演出家″と呼ばれた私。いつか天国の蜷川さんに、才能があるとは言わないが、少しはましになったと言われるよう、あの鋭い眼差しを忘れずに生きていきたい。感謝。合掌。

大きな影響を与えた蜷川さん

生涯、およそ300本もの舞台を手がけてきた蜷川幸雄さん。蜷川さんが演劇界に起こした革命はその後の演劇人たちに大きな影響を及ぼしました。

演出家で劇作家の野田秀樹さんは、蜷川さんが亡くなった当日にインタビューに応じ、蜷川さんについて、「僕のヒーロー」だと話しました。「蜷川さんは自分のやりたいことを決めるととにかく突き進んでいた人。アングラから大舞台に飛び込んだときは、周囲からずいぶんたたかれたんですが、それに負けじと『アングラの世界だけでは演劇はよくならない』という強い信念を持っていたんだと思います。あれだけエネルギーを演劇界に振りまいてきた人は希有ですから。そういう意味では僕のヒーローです」。

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舞台「パンドラの鐘」などで蜷川さんが演出した舞台の台本を手がけたこともある野田さん。蜷川さんの演出はほかの演出家とは一線を画す違いがあったといいます。「蜷川さんは、舞台の見せ方というものを圧倒的に知っていました。蜷川さんは蜷川さんの頭ですべて考えていて、完全にオリジナルなものを生み出します。その代わり、空振りになることもありましたが、それがホームランになったときの蜷川幸雄のすごさっていうのは、ワールドクラスです」。

野田さんは蜷川さんが亡くなる前日、蜷川さんの病室を訪れていました。病室のベッドのそばには、3冊の新しい台本が置いてあったと言います。最後まで舞台のことを考えていた姿がうかがえます。野田さんは「蜷川さんは僕より20歳年上なので、ライバルというのは失礼かもしれませんが、蜷川さんがいいものを作ったら、『負けたくない』という気持ちがすごくありました。僕も20年後まであのくらいのエネルギーを持って舞台をやれるかと思うととても励みになります」と話してました。

世界中の人の心に生き続ける

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常に演劇の新しい可能性を追い求め、舞台への情熱と探究心を持ち続けてきた蜷川幸雄さん。その姿は最後まで「演劇界の革命児」でした。演劇に生きた人生を駆け抜けた蜷川さんの作品の数々は、日本のみならず、世界の多くの人々の記憶に刻まれ続けていくことでしょう。

投稿者:かぶん |  投稿時間:12:36  | カテゴリ:文化のニュース
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