2016年07月11日 (月)

テレビ・ラジオで活躍 永六輔さん 死去

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作詞家として「上を向いて歩こう」などを手がけ、放送作家やタレントとしてテレビやラジオで幅広く活躍した、永六輔さんが、今月7日、東京都内の自宅で亡くなりました。83歳でした。

永さんは東京・浅草の出身で、学生のころにNHKのラジオ番組「日曜娯楽版」にコントを投稿したことをきっかけに、ラジオやテレビの番組を企画・構成する放送作家になりました。
その後、NHKの人気バラエティー「夢であいましょう」の台本を担当して高い人気を得たほか、作詞家として、世界的な名曲として知られる「上を向いて歩こう」や、「帰ろかな」それに「こんにちは赤ちゃん」などを手がけ、作曲家の中村八大さんとのコンビで次々とヒット曲を出しました。
また、タレントとして、軽妙な語り口と歯に衣着せぬトークで人気を集め、テレビ番組の司会などでも活躍しました。ラジオのパーソナリティーとしても親しまれ、自身の名前のついた民放のラジオ番組は、旅で見聞きした話や時事問題などを幅広く取り上げ、およそ半世紀続きました。平成4年には放送文化賞を受賞しています。
平成6年に出版した「大往生」は、老いや病、死を巡るさまざまなことばを引用して独自の死生観を訴え、200万部を超えるベストセラーになるなど、多彩な才能を発揮しました。
永さんは、平成22年にパーキンソン病と前立腺がんを患っていることを公表してからも、リハビリを行いながら精力的に講演やラジオの活動を続け、東日本大震災のあとには被災地に足を運んで、被災者の声に耳を傾ける活動にも取り組んでいました。ただ、この数年は体調を崩すことも多く、所属事務所によりますと、永さんはことし1月に入院したあと、4月に退院し、その後、自宅で療養を続けていたということです。
先月には、体力の回復にどのくらいかかるかめどがついていないとして、レギュラーを務めていた民放のラジオ番組を降板しました。
永さんは今月7日、自宅で亡くなり、事務所によりますと「死因は肺炎だが、老衰といっていい状況」で、穏やかな最期だったということです。葬儀は身内だけで済ませ、後日、お別れの会を予定しているということです。所属事務所は「よい仲間に全力で応援していただき、励まされ、永六輔として納得できる人生のしめくくりであったと思います」とコメントしています。

「静かに最期迎えた」

永六輔さんの葬儀は、11日に東京・台東区にある永さんの実家の寺で親族だけで営まれました。
永さんの長女の夫で、事務所の代表を務める良明さんは葬儀のあと取材に応じ、「病院ではとにかく『家に帰りたい』と言い続けていたので、自宅で家族とすごせて、幸せそうでした。体力がなくなって、食事をとるのも大変そうでしたが、徐々に元気を取り戻して、持ち直してくれるのかなと、期待するときもありました」と、晩年の様子を振り返っていました。そして、亡くなったときの様子について、「前の日の夜には娘たちと言葉を交わし、すぐに亡くなるようには思えませんでしたが、翌日の午後、眠っている間に徐々に息が細くなり、静かに最期を迎えました」と述べました。
ことし2月に入院先の病院から電話で出演した民放のラジオ番組が最後の仕事だったということで、「仕事のことばかり考えていた人なので、パーキンソン病で体が動かなくなり、仕事がままならなくなったのは無念だったと思います。最後に、ラジオで一声でも皆様にお届けしたかったと思っているのではないでしょうか」と死を悼んでいました。

黒柳徹子さん「最後の一撃のよう」

永さんと60年以上にわたってテレビやラジオで一緒に仕事をしてきた黒柳徹子さんは、11日コメントを出し、「最後の一撃のようだ」と永さんの死を悼みました。

そのうえで、亡くなる3日前と4日前にお見舞いに行ったときの様子について、「話しはできなかったけど、私が『永さん!』というと、必ず、目を開けて私を見て、声を出して笑いました」と振り返りました。
そして、「このごろ、お友達が亡くなって、本当に、最後の一撃のような、永さんの死です。でも、生きているもののつとめとして、当分、仕事、つづけます。永さん、永いこといいお友達でいてくださって、ありがとう。アフリカなんかで『上を向いて歩こう』と聞くと、きっと、空を向いて涙がこぼれないようにすると思う」とつづっています。

とても温かい方 瀬戸内寂聴さん

永六輔さんと半世紀近くにわたって親交があった作家の瀬戸内寂聴さんは、「きのう、ご家族から連絡を受けて知りましたが、とてもびっくりしました。私より11も若いので、まだまだお元気でいらっしゃると思っていただけに、とても残念です」と突然の死を悼みました。
永さんが3年前、家族とともに京都の瀬戸内さんの自宅に遊びに来たときの様子が印象に残っているということで、「車いすに乗っていましたが、とても元気な様子で私の法話にも飛び入り参加してくれました。話もとても達者にされていて参加された方々もとても喜んでくださり皆さん、大笑いでした。おととし東京で会ったのが最後になりましたが、『お互い元気でいようね』と声を掛け合いました」と振り返りました。
そのうえで、「人間としてとても温かい方でした。ファンの方々にも優しく、一人一人に握手をしていたのを覚えています。私とは年が離れていますが、物事に対する考え方が同じで互いに信頼しあっていました。作家としてもタレントとしても、とても才能のある人だったので本当に惜しい人を亡くしました」と話していました。

昭和の語り部が1人消えた 倉本聰さん

北海道富良野市に住む脚本家の倉本聰さんは、昭和40年ごろ、作家の水上勉さんを中心とした集まりが京都で行われたのをきっかけに、永六輔さんと出会い、その後およそ50年にわたって親交がありました。
倉本さんは、永六輔さんとともに日本の昔話をテーマにトークショーをしたことが思い出に残っていると話し、「ラジオの仕事が好きで、好奇心の塊みたいな人でした。無名な人からも上手にことばを引き出す巧みな話術を持ち、博識な人だなと感心していました」と話していました。そして、「昭和の語り部が1人消えてしまい、昔話ができる人がまたいなくなってしまった。寂しいですね」と別れを惜しんでいました。

市井の人々への視線大切に 落合恵子さん

永六輔さんと20代のころからラジオ番組などで交流があり、市民運動の集会などにもともに参加していた、作家の落合恵子さんは「数年前、代々木公園で開かれた集会に永さんが車いすで参加されて、ステージから、ことばを一つ一つ積み上げるようにお話をされていたのが心に残っています」と死を悼んでいました。
そのうえで落合さんは、永さんの戦争体験や平和への強い思いに触れ、「戦後の傷痕を抱えた新しい民主主義の時代の中で、永さんはいつも『市井の人々』への視線を大切にしていました。人間の当たり前の喜びや悲しみを、華やかなことばではなく、路地裏の人々のうなずきあいやため息のような形で、ことばや歌として表現された方だと思います」と振り返りました。
そして、永さんが残したメッセージについて、「永さんの作詞したヒット曲に『こんにちは赤ちゃん』がありますが、生まれたばかりの赤ちゃんに大人たちが『こんにちは』と声をかけられる時代は平和な時代です。戦争を体験した永さんが『こんにちは赤ちゃん』ということばを使った意味や、永さんが市民目線に立って大切にしてきたものを、私たちも受け継いでいかなければいけないと思います」と話していました。

大きな時代が終わってしまった 松島トモ子さん

永六輔さんが、早稲田大学の学生時代に、アルバイトの舞台監督をしていた際、10歳の子役として出会い、それ以来60年余りの交流がある、女優で歌手の松島トモ子さん(71)は「永さんは、本気で私を叱ってくれる本当に怖い人でした。芸能界で生きていくうえで、私の心構えを養ってくださった大切な人でした」としのんでいます。
永さんは、みずからの戦争体験から平和を願う気持ちが非常に強く、去年10月、コンサートで共演した際には、松島さんが、戦死した父親への思いを歌と語りで表現したところ、永さんに「とてもよかった」とほめられ、印象深い思い出になっているということです。
松島さんは「大きな時代が終わってしまったという思いです。恩返しができないままに、逝ってしまわれてとても残念です」と話しています。

みんな母性本能あるとアドバイス 梓みちよさん

永六輔さんが作詞した「こんにちは赤ちゃん」を歌った、歌手の梓みちよさんは、永さんが亡くなったことを受けてコメントを出しました。
この中で、デビュー直後に曲をもらったときのことを振り返り、「ママでもないのにどうやって歌えばいいんですかと泣きそうになりながら聞いたところ『いいかい。女性はみんな母性本能があるんだ。胸に玉の様な可愛い赤ちゃんを抱いていると思って歌えばいいんだよ』とアドバイスをいただきました。その時のことばが、今でも昨日のことのように思い出されます」としています。
また、「永さんなしでは、梓みちよという歌手は誕生しませんでした。思い出を振り返ってみても、感謝の気持ちしかありません。ほんとうにありがとうございました」と感謝のことばを記しています。

天国の永さんにも歌いたい ジェリー藤尾さん

「知らない街を歩いてみたい」で始まる永六輔さん作詞のヒット曲「遠くへ行きたい」を長年歌い続けてきた、歌手のジェリー藤尾さんは「寂しいを通り越し、気持ちの整理がつきません。ことばを大事にする人で歌を聞いている人たちへの伝え方を指導してくれました。永さんに『遠くへ行きたい』をいただいたときに、“遠く”というのはどこですかと尋ね、『天国でも地獄でも自分が思う遠くのことを思って歌ってほしい』と言われたのを覚えています。それ以来、永さんからもらった宿題だと思って、この歌を歌っていますが、これからは天国にいる永さんに向かっても歌っていきたいと思っています」と話していました。

新しい色与えて頂いた 北島三郎さん

永六輔さんが作詞したヒット曲「帰ろかな」を歌う、歌手の北島三郎さんは「最近はお会いしてなかったので心配してましたが、このたびの訃報を聞き大変残念で淋しい思いです。昭和39年にNHK『夢で逢いましょう』で初めてお会いして『帰ろかな』という楽曲で北島三郎という歌い手に、ジャンルの違う新しい色を与えて頂いた大切な方でした。人間として大きく温かい素晴らしい方でした。ご冥福を心よりお祈り申し上げます」とコメントしています。

ツイッターでも多くの著名人が死を悼む

ツイッターでは、タレントや作家など多くの著名人が、永さんの死を悼むコメントを残しています。
このうち、タレントで俳優の松尾貴史さんは「昔、けなされて何くそと刃向かったら後に認めて下さり、毎回舞台の公演をご覧下さり逆にお褒めを頂けるようになった。哀悼」とコメントしました。
また、作家の柳美里さんは福島県南相馬市の飲食店に飾られている「明日死んでもいいように百まで生きてもいいように考え考え生きて行こう」などという永さんのことばを見ていたときに訃報に接したと記し、このことばを写真で紹介しました。
ラジオパーソナリティーのジョン・カビラさんは「心よりご冥福をお祈りします。早くから日本の電波メディア&音楽会で八面六臂のご活躍。偉大な大先輩の旅立ちに悲しく、寂しくも身が引き締まる思いです」とコメントしました。さらに、ピアニストで作曲家の園田涼さんは「数回イベントでご一緒させていただいたけれど、ユーモアと厳しさが同居するあの感じの方に、それまで出会ったことがなかった。そしてきっとこれからも、そういう人に出会うことはない」とコメントしました。

投稿者:かぶん |  投稿時間:14:06  | カテゴリ:文化のニュース
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追悼番組は、映像が残ってれば、テレビファソラシドがいいなぁ~。デビュー前の近藤真彦さんと原宿を歩くところとか見たい。夢であいましょうと、昭和38年の紅白歌合戦は絶対出るでしょ。
スポットライトも見たいです。

投稿日時:2016年07月14日 07:27 | 更紗

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