キャスター・アナウンサー BLOG

大越健介の現代をみる

Gゼロの時代がやってきた

2014年07月23日 (水)

お金もあれば友だちもそれなりにいるけれど、どこかいつも不安げで、腕力の強い兄貴分に頼りがち。皮肉な見方をすればそれが日本であり、「腕力の強い兄貴分」とはアメリカのことだ。ところが頼りにしてきたその兄貴分が、「なんだか疲れちゃってさ。ちょっと休ませて」と言ったとしたら・・・。
例えがあまりよろしくないのは承知している。でも、今度のアメリカ取材では、そんな光景がしきりに頭に浮かんだ。

ぼくがワシントン支局の一員として赴任したのは2005年の夏のこと。時のブッシュ政権は、世界の悪者をやっつけるのだとばかりに、ブンブンと太い腕を振り回している感があった。自分流の「正義」を信じて突き進む青年のようなアメリカ。だが、それをはた迷惑と感じる国は少なくなく、ケンカに突き進んだ結果として、アメリカ自身も深手を負った。多くのアメリカ兵がイラクで、あるいはアフガニスタンで若い命を落とした。アメリカが「世界の警察官」を自称していたのはこの頃である。

それから10年近い月日が流れ、ぼくは帰国して今の番組の仕事をしている。久々のアメリカ取材にやってきて、さまざまな人々にインタビューをして感じることは、「世界の警察官」であることをやめ、少し休ませてほしいと息を切らせているアメリカの姿である。

多くの犠牲を払って「民主主義」を根付かせたはずのイラクでは、宗派間の対立と過激派によるテロが再燃している。中東は頭痛の種が尽きない。アメリカの同盟国イスラエルと、イスラム原理主義組織・ハマスとの戦闘は激化し、イスラエルの肩入れをせざるを得ないアメリカは、公平な仲介者としての資格を欠く。
そして、冷戦時代の対立を乗り越えて、協力しあえる仲となったはずのロシアは、ウクライナ問題をめぐって公然と欧米に異議を唱え、譲る気配がない。

多方面で手詰まりになっているアメリカ。「世界の警察官」であり続けるだけの気力を失ったとしても不思議ではない。そんな時代の空気を先読みしたのが、アメリカの国際政治アナリスト、イアン・ブレマー氏だ。その著書「『Gゼロ』後の世界」は、軍事力も経済力も超大国であることは変わらないものの、アメリカがリーダーシップを発揮する意欲を失い、世界が漂流する姿を描いた問題作だ。
きのう(22日)、ニューヨークのオフィスでインタビューに応じたブレマー氏は、「Gゼロの時代は、予測したより早くやってきましたね」と淡々と語った。

今後、世界が向かう方向は見通しにくい。圧倒的なリーダーと言われたアメリカが「休養」から明ける時がくるかどうかはわからないし、経済力ではいずれアメリカをしのぐだろうと言われる中国も、世界のリーダーとしての信任を得るにはほど遠い。中東情勢はますます混沌としているし、ヨーロッパも、EU加盟各国の足並みがそろうかどうかも不透明だ。

もちろんのこと、日本もそんな「Gゼロ」の時代に生きている。経済には復調の兆しが見え、ともに前進しようという機運の高まりがあるものの、安全保障政策ではとてもひとつの方向にまとまっているとは言えないのがこの国だ。これからも、国として進む道はどうあるべきか、議論は尽きないだろう。
ただ、その際に忘れてはならないのが、頼りになるはずの兄貴分は、疲れて養生が必要な状態にあるという現実だ。隣人として大切な関係であることに変わりはないが、お節介なほどにこちらを守ってくれると思い込むべきではない。

国際社会のリアリティは、そこにある。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:17:28 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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廃炉は覚悟の仕事だ

2014年07月16日 (水)

東京電力福島第一原発にほど近い「Jビレッジ」。もともとはサッカーの総合施設だが、事故の後は収束作業の拠点となった。敷地内に窓がびっしり並ぶ、プレハブの建物が何棟も並んでいる。
それは東京電力の職員およそ1000人が住みこむ単身寮だという。どんな造りになっているのか前から気になっていて、今回、その中を見せてもらった。予想通り狭い。4畳半にも満たないスペースにベッドと肩幅ほどの机が置かれている。
壁は板一枚。隣人のいびきで目が覚めることもあるという。トイレやシャワーはもちろん共用だ。売店や食堂はあるが夜10時前には閉まるので、深夜まで仕事をすると、腹をすかせて寝るしかないときもあるという。

住人のひとりは、「自分は週末、だいたい家族のもとに帰るからいいのですが、たとえば福島第一に配属された新入社員が、ずっとここに住んで作業に当たるとすればかわいそうですね」と言う。一方で、原発事故のために家を失い、今も避難暮らしをしている人たちのことを考えれば「ぜいたくは言えない」そうだ。東電職員の率直な感想だろう。

「Jビレッジ」から、東電が用意してくれたバスで原発のサイトに向かう。事故後、5回目の現地取材となった。マスコミ関係者の中ではたぶん一番多いのではないかと言われる。エスコートしてくれた東電職員たちもまた、あの単身寮の住人である。

初めてサイトに入っての取材が許されたのが去年の3月。その時はまだ津波の爪痕も生々しく、護岸沿いには無残に車がひっくり返ったままだった。放射線量も高く、サイト内を移動するバスを乗り降りするにも、かなり神経質に場所を選ばなくてはならなかった。しかし、今回の取材を通じて、格段に環境はよくなったと実感する。

がれきが片付けられ、モルタルなどによって地表面が固められたことで、放射線量はずいぶん低くなった。何より、こめかみのあたりが締め付けられる全面防護マスクをせずとも、鼻と口だけの半面だけの簡素なマスクで入ることができるエリアが格段に広がったことがありがたい。

「やはり自分たちは、どうしてもあの事故の後始末をしているという意識になりがちです。でも、廃炉には30年、40年という長い時間が必要。仕方なくやっているのではもたないと思うのです」
福島第一原発の小野明所長はそう強調した。少しでも前向きに作業にあたることのできる環境を、少しずつ整備していくことが大事だと考えている。放射性物質の除染はその第一歩でもある。
そして、第一原発のサイト内に、400人が働くことのできる新しい事務所棟を作った。まもなく開所の予定である。いま、第一原発の廃炉を司るいわば司令部は、となりの福島第二原発にあるのだが、どこか間借りをしている後ろめたさがあった。また、近いと言っても車で数十分はかかる距離であり、何かあったときの即応体制も心配だった。それが新事務所棟の完成で、気がかりはなくなる。真新しい、どこかウナギの寝床を思わせる施設を案内しながら、小野明所長は、「これだけでも、作業の士気が上がってくれると思います」と、どこかほっとした表情だ。

事故から3年と4か月が経っても。まだ分からないことは多い。メルトダウンした1、2、3号機の中の様子はまだ明らかにならないし、目下の課題である汚染水対策は、気の遠くなる自然との闘いでもある。
だからこそ、後ろ向きにならず、覚悟を持って仕事に当たらなければならないと、現場の指揮官たちは腹を決めている。廃炉というモチベーションを持ちにくい性質の仕事であっても、未知の分野への挑戦である以上、そこには新たな発見や開発という、ポジティブな要素も少なからずあるのだ。

ミッションはこれからだ。不自由な暮らしに辛抱し、事故によってふるさとを追われた住民たちの悲痛を忘れることなく、電力マンとしての意地を見せてほしいと期待している。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:52 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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コメント修行

2014年07月09日 (水)

NHKに入って約30年、記者ひと筋にやってきて、どれだけニュースの原稿を書いてきたか分からない。ところが、キャスターとして番組で自分が語るコメントは、それまでに書いてきた原稿のどのジャンルにも当てはまらない。今も修行、毎日が試行錯誤だ。

ニュース項目の前後につけるコメント(前説、後説と呼ぶ)を書くことは、キャスターであるぼくの大事な仕事だ。そのひな型は各項目の制作責任者に書いてもらうが、ぼくはたいてい自分の手で書き直す。VTRの中身を精査しながら、伝え手としてだけではなく、受け手である視聴者のみなさんを意識したコメントに変えていく。

きのう、食料品などの軽減税率を適用すべきかどうかについて、ヒアリングが始まったというニュースを紹介した。担当者は、概略こんなふうに前説(まえせつ、と読む)の原案を作ってくれた。
「食料品などの生活必需品を対象に、消費税を本来の水準より低く抑える『軽減税率』。その導入に向けて、自民・公明両党はきょうから関係団体のヒアリングを始めました」

これをもとに自分流に作り直していく。視聴者が興味を持ってもらえるような呼びかけから始めたい。そして、このニュースの最大の眼目である「軽減税率」適用の線引きの難しさを伝えるニュースであることも明確にしておきたい。
そこで、ぼくが書き直した前説は以下のようになる。

「次は私たちの家計に直結する議論です。自民・公明両党は、きょうから軽減税率についてのヒアリングを始めました。食べ物や飲み物は生きていく上で欠かせないものですから、その税率を下げて負担を軽くするというのは、低所得者対策としても納得のいく政策だという声があります。しかし、軽減税率を適用する場合に線をどこで引くのか。ひとつひとつ考え出すと、この問題、簡単でないことがわかってきます」
多少長くなったが、書き言葉ではなく話し言葉にして語りかけたいと、コメントを工夫したつもりだ。視聴者の何%かの関心をより引き付けることはできただろうか。

前説とはまた違う難しさがあるのが後説(あとせつ)である。押しつけがましく意見を言いたてるのではなく、視聴者とともにそのニュースが投げかけた意味を「得心」し、「共有」するものでありたいと思っている。

サッカー・ワールドカップで力を出し切れずに敗退し、帰国した主将の長谷部選手が、東北の被災地の幼稚園を訪ねた。震災の後、再建費用を支援するなどして交流を続けてきた幼稚園だ。その訪問の様子を番組の最後で短く紹介した。長谷部選手のほっとした表情が印象的な映像だった。その後説ではこう述べた。
「敗れて傷ついた長谷部キャプテンを癒したのは、人の心の痛みを知る、被災地の子どもたちでした」
ほとんどアドリブで出てきたコメントであり、変わった中身でもないのだが、スタッフから「しゃれたことを言いましたね」とほめてもらった。

逆に、後説で失敗したこともある。
ユーミンこと、松任谷由実さんへのインタビュー。その楽曲作りや、時代の受け止め方をたっぷりと聞くことのできた濃い中身だった。後説では、彼女が日常、公共の乗り物でよく外出する日常を、余話として紹介した。
「オフの時は、普通に自転車で買い物に出たり、路線バスや地下鉄で街に出かけるそうです。きょう電車であなたの隣に座っていたのは、オーラを消したユーミンかもしれません」
スタッフから「ちょっと気取りすぎですね」と言われてしまった。技巧に走り過ぎて滑ってしまったようだ。ユーミンさん、ごめんなさい。

こんなふうに試行錯誤の連続だが、それだけにやりがいのある仕事でもある。
嬉しい話があった。ぼくの高校時代の同級生が福岡・博多の屋台で飲んでいると、店のテレビがニュースウオッチ9を流していて、大将が客あしらいの合間にニュースに聞き入っていたという。そしてぼくがコメントした後、何気なくこんなことを言ったそうだ。
「この男は、日本を落ちつかせとるばい」

何とありがたい言葉だろう。その期待を裏切らないようなコメントを発信していきたい。
毎日が、修行である。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:18:01 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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恵恵がのこしたもの

2014年07月02日 (水)

年老いた夫婦が息子とともに食卓を囲んでいる。この日は「父の日」で、息子からはマッサージ器のプレゼントがあった。喜ぶ父親。どこにでもある平穏な家庭にお邪魔した、そんな感じである。
ここは中国・北京。林立する高層アパートの一室である。中は思ったより広々としていて、愛犬がフローリングの床に寝そべっていた。
「息子」の名前は岡崎健太という。このほど、愛した妻との日々をつづった手記を出版した。今は、北京在住の日本人の子どもたちの家庭教師をして生計を立てている。同居する「両親」はいずれも中国人の父と母である。。

健太は高校教師をしていた10年前、母校の関西学院大学の留学生歓迎会で、ひとりの中国人留学生と出会った。詹松惠(ジャン・ソンフィー)、愛称を「恵恵(フィーフィー)」と言った。ふたりはたちまち恋に落ち、結婚を約束した。

留学を終えて中国に帰った恵恵に乳がんがみつかったのは、それからほどない2005年の7月だった。結婚後はふたりで北京で暮らすことを決めていた健太だが、結婚式を待たずに、思いもよらない形で北京に飛ぶこととなった。手術とその後の抗がん剤治療と闘う恵恵を、日本での仕事も辞めてひたすら看病する生活となった。

のちに肝臓にがんが転移した恵恵は、発病からほぼ6年後の2011年6月に亡くなった。33歳だった。健太は妻が亡くなった後も、その両親と北京で暮らしているのである。

恵恵の、正面から向き合うことを逃げない率直な性格に、健太は白旗を上げることもしばしばだったという。健太が忘れられない恵恵のことば。
「私たちはね、言いたいことがあったら絶対に言葉でそれを相手に伝えないといけないの。黙っていたら一時的にうまくいくかもしれないけど、それは2人の問題を放置することになるの。社会で生活するうえで、すべて本音で生きていくのが無理だとしても、せめて夫婦の間では本音で生きていきたいの」

乳がんの手術と抗がん剤治療をいったんは乗り越え、北京でレストランを起業して充実した日々を送った一時期もあった。しかし、がんは容赦なく転移する。

一進一退の苦しい闘病生活。だが看病に付き添う健太は、恵恵とともに生きることの大切さをかみしめるときがあったという。手記にはこうある。
「意外にも私は病室で恵恵と一緒にいられることに満足していたのだ。恵恵にとっては辛く苦しい治療なので、満足という言い方は適切でないのかもしれない(中略)。今までの私は無駄なことかどうかは自分のために時間を使っているかどうかで区別していた。相手のためにただ単に多くの時間を費やすこと―そんなことに価値があるとは思いもよらなかったし、自分以外の誰かのために長い時間かけて何かをしたことはなかった。これはもしかしてものすごく贅沢なことなのかもしれない」。

率直で、物おじせず、それでいて他人への気遣いを決して忘れなかった恵恵が、健太の心にのこしたもうひとつの大切なことがある。それは両親への感謝の心だった。ひとり娘の自分を日本に留学させてくれた両親。しかし、その愛する両親より先に天国に旅立つことは、彼女にとってこの上なくつらいことだったにちがいない。健太にとって、悲しみにくれる恵恵の両親を北京に残してひとり日本に帰る選択肢はなかった。

「日本にも両親がいます。だから、日本と中国の双方を行き来しながら生活できるような仕事がしたいですね。でも今は、恵恵の残したものを、もう少しここで守っていきたいんです」。彼女の墓前で健太は言った。
一方で北京の両親は「健太は私たちの大切な息子。だから、新しい幸せをつかんでほしい」と言うが、健太に今のところその気はないらしい。

ふたりをここまで強く結び付けたもの。男女の情愛に加えて、それは互いに対して抱く「敬意」のようなものではなかったか。健太は恵恵という人間を尊敬し、恵恵の意見を尊重する健太を、彼女もまた尊敬していた。
そんなふうに水を向けると、「本当に真剣に、私に向き合ってくれていました」と、健太ははにかむようにして振り返った。

国の壁などやすやすと越えて、人間は結びついていくことができる。今という時代だからこそ、ふたりの物語がなおのこと胸を打つ。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:43 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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進化の過程 

2014年06月25日 (水)

サッカーワールドカップ1次リーグの第3戦。日本はコロンビアに4対1という大差をつけられる展開となった。それでも残された時間、必死でボールに食らいつく日本代表イレブンを見ながら、なぜか背筋が伸びる思いがした。
それは、最後まであきらめないスポーツマンシップの清々しさに感動したとか、逆に痛々しいほどの悲壮感に打たれたとかいうことではない。これからも彼らの挑戦は続くのだと、心に染みいるように納得したのだ。

この試合、希望を抱いたのは前半までだった。前半終了直前に同点に追い付いた岡崎選手のヘディングシュートは、試合開始直後からの日本の積極的な戦いぶりからすれば必然の流れだったかもしれない。同時刻に、同じC組のコートジボワールがギリシャにリードされるという願ってもない展開と相まって、決勝トーナメント進出が現実味を帯びた。
だが後半は総崩れになった。前がかりの陣形の裏をかかれてカウンター攻撃を浴び、相次いでゴールを決められた日本は、1次リーグ2敗1分けとなり、最下位での敗退となった。

それでも日本代表は、ひとつの哲学を貫こうとしていたと思う。それは、日本を「そこそこの強豪」から「世界の頂点をうかがう強豪」へと進化させるという、高い志である。
メンバー発表の時から、サッカーの専門家たちはうなったという。その顔触れに見る「攻め」の姿勢。攻めとは攻撃のときだけではない。守りも、いわゆる「高い」位置で積極的にボールを奪いに行くことを自らに課した。そのリスクは承知の上で、コンパクトな陣形を保って相手のサイドで存分にパスを回し、常にゴールを狙うサッカーを目指したのである。

結果は完全燃焼とは程遠く、コロンビア戦の後、選手たちは「応援していただいた皆さんに申し訳ない」と肩を落とした。エースの本田選手が、「すべてを受け入れるしかありません」と覚悟したとおり、夕刊紙の誌面には「奇跡起こらず」、「コロンビア2軍に惨敗」と容赦ない見出しが躍った。

だが、今回いくら期待外れの結果だったとはいえ、ぼくは彼らを非難する気持ちにはなれない。主将の長谷部選手が語ったひと握りの言葉の中に、強い自負がのぞいた。
「結果がすべてではありますが、日本のサッカーが継続して、未来に向かって同じプランを描いていくことが大事だと思います」

しばし世間の風圧は厳しいものがあるだろう。選手は届かなかった理想の遠さにぼう然とし、道を見失うこともあるかもしれない。今回が代表のユニフォームを着る最後となる選手もいるだろう。
だが、つらい現実も「すべて受け入れ」て、さらなる高みを目指して欲しい。日本サッカー界を挙げた努力の積み重ねによって、サッカーが国民的スポーツに成長しつつあるという事実そのものが、日本代表を後押しする力となるはずである。

ワールドカップでは何と戦ったのか。4年に一度の大舞台特有のプレッシャー。世界屈指の強豪たちの高い壁。いずれもそのとおりだろう。
だが、彼らが戦っていた本当の相手が、自らに課した高い志であったのなら、今回の敗戦にうつむく必要はないと思う。進化の途中で立ち止まることなどよくあることなのだ。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:36 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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ずうずうしい夢

2014年06月18日 (水)

アメリカのワシントン支局に駐在し、任期も終わりに近づいたころ、帰国したらどんなことがしてみたいかと自問自答をしていた。渡米前、ぼくは15年以上も政治取材の一線にいたので、帰国してふたたび政治報道に関わりたい気持ちもあったが、アメリカでの取材で少し視野が広がったという自負もあった。ならば政治にとどまらない幅広い分野で、視聴者に分かりやすく情報を伝える仕事ができないものか。そんなことを考えながら、ある方向性が見えた。

それは・・・「週刊こどもニュース」の「お父さん」になることである。あの池上彰さんが初代のお父さんを務めたこの番組は、こどもに分かるニュースと銘打ちながら、実は大人にも人気があった。ニュースの本質を突き詰めれば突き詰めるほど、物ごとはシンプルな形をあらわす。逆に言えば、わかりやすくニュースを伝えるためには、その本質をしっかり理解しなければならない。つまりはテレビジャーナリズムの原点にあるのがこの番組だと思ったのだ。

実際には、構想はぼくの胸の内にとどまり、「週刊こどもニュース」のお父さんになることはなかった。そして帰国後しばらくして「ニュースウオッチ9」のキャスターになった。当然ながらこれは大変に光栄なことで、5年目に入ってもその責任の大きさに怖れおののく毎日だが、自分が願いどおり「お父さん」になっていたらどうだっただろう、などと今も考えてしまう。その「週刊こどもニュース」はもうない。

そして52歳の今。まだ先のことではあるが、残るNHK生活も指折りで数えられる範囲になった。熟年らしく、自分の好きなことをやれるとしたらその仕事はなんだろうとふと考えるときがある。そうして心に浮かんでくるのが・・・スポーツやりたいなあ、という思いである。いえ、別に自分が身体を動かすことではなく、伝えることです。

ぼくは大学まで野球にどっぷりつかった人間だ。相撲もかなり年季の入ったファンである。縁が遠かったサッカーも、ワールドカップなどニュースで取り上げる機会に恵まれ、もう人並み以上に熱が入っている。

仕事柄、多くのスポーツ人にインタビューしてきた。サッカー元日本代表のカズこと三浦知良さん。ひとつのスポーツをとことん愛する人間はここまで強い言葉を持つのかと感動した。岡田武史元代表監督には、複雑に利害がぶつかる国際社会にあって、スポーツが持つ共通語としての役割を教えられた思いだった。
野球では人脈が広がった。東京六大学で戦った仲間たちのその後の人生は多彩だ。プロ球界で生き抜いた者、アマチュアの指導者になった者、まったく別の世界で成功した者、挫折を味わった者。50を超え、共に語り合えるものがある。

スポーツとは人間の最大の発明だと思う。人間の持つ可能性を、アスリートたちが自らの肉体を使って究極まで表現する。競技自体の面白さのみならず、限りない人間ドラマがそこにある。
そんなスポーツを生涯の友にしたい。単なる愛好者というだけでなく、その深みを探る試みは、どの立場にあろうと人生後半をかける価値のある仕事だと思っている。いずれはちょっと歳をくったスポーツキャスター、なあーんて、誰か興味持ってくれないかなあ。

ちょっと筆が滑りました。少しばかりずうずうしい夢の話です。
ちなみに今の「ニュースウオッチ9」のキャスターに、こだわりをなくしたわけでは決してありません。その逆で、正直、今の仕事を続けられるならそれに勝る幸せはないと思っています。身体が言うことを聞く限り、とことんまでがんばり抜く覚悟です。念のため。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:18:47 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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U君へ

2014年06月11日 (水)

U君。はじめまして。この前はお手紙をありがとうございました。
何度も読み返し、同僚のみんなにも読んでもらいました。きびしいご意見をいただきましたが、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
あなたが手紙をくれたのは、福岡市の小学校で、5月というのに真夏のような暑さの中、14人のこどもたちが熱中症で倒れたニュースについてでした。あなたはその小学校の5年生。「ニュースに不満な点がふたつありました」と書いてありましたね。

ひとつめの不満。それは、「取材チームが下校途中のクラスメイトたちを待ち受けて次々に質問したこと」とありました。そっとしておいてほしいという気持ちだったのかなと想像します。それなのにマイクを向けてくるいろいろなマスコミの中には、無遠慮な態度をとる人もいたのかもしれませんね。
もしそうであれば、たいへん申し訳ないことをしました。不幸なできごとを取材するときにはとくに、相手にていねいな態度で接しなければならないと、あらためて強く思いました。

もうひとつは、U君の小学校と東京の小学校を比べて、「いかにもぼくの学校が悪いような表現に、少し傷つきました」とありました。心が痛みました。
ちょっと説明が必要ですね。ぼくたちは、その週末にたくさんの学校で運動会が予定されていること、でもこの時期にしてはきびしい暑さが予想されることを考え、参考になる熱中症対策をとっている例を東京都内の小学校で探し、放送で紹介しました。

2つの小学校を比べて、こっちはいい例、こっちは悪い例というように紹介するつもりではなかったのですが、U君にとっては「比べられる側」に立たされ、悔しい思いをしたということなのですね。思いがけず、結果的に相手に不愉快な思いをさせてしまうことは普段の生活でもありますが、放送という多くの人に向き合う仕事をしているぼくたちは、そのことにもっと注意を払うべきだと反省しました。

ただ、ぼくたちが週末を前に必要な熱中症対策について取材し、放送したことは間違いではなかったと思っています。ぼくたちが伝えた情報によって、熱中症にかからずに済んだ子どもたちがいたとすれば、本当に嬉しいことです。そのこともわかっていただけますよね。

そしてもうひとつ、手紙の中に忘れられないことが書いてありました。それは、運動会本番でU君のクラスはみごとな練習の成果を披露したこと。あなたの手紙には、「そういう事実もきちっと報道してほしいです」とありました。これには正直、返す言葉に迷いました。
そのとおりですね。でも、報道ではすべてを紹介することが不可能なのも事実です。その後のみなさんのがんばりも伝えることができればよかったのですが・・・。

開き直りみたいに思うかもしれませんが、聞いてください。この機会にぜひ考えてほしいことがあります。それは、報道されることの向こうには、伝えられていない無数の事実があるということなのです。だからこそ、想像の翼を広げることが大切だと思うのです。
皮肉なことですが、今回そのことをU君は逆の立場から身をもって知ったことになりますね。この経験をぜひ、これからに生かしてほしいと思うのです。ぼくたちもそうです。いろいろなできごとの中から、「限られた事実を選んで伝える」ことの責任の重さをかみしめなければならないと思っています。

U君。小学生のあなたがNHKという大きな会社に手紙を出し、自分の意見を伝えることは勇気のいることだったと思います。しかも、厳しい意見なのに、礼儀正しい文章によって少しも相手を傷つけない、すばらしいお手紙でした。
あなたのような小学生がぼくたちの番組をしっかり見ていてくれるのだと思うと、とても誇らしく、同時に背筋が伸びるような気持ちになりました。毎日忙しく走ってばかりのぼくたちに、立ち止まって考える機会を与えてくれたことに心から感謝します。本当にありがとうございました。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:39 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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美しいひと

2014年06月04日 (水)

週末、あるドキュメンタリー映画を見てきた。題名を「美しいひと」という。
原爆を生き抜いた、韓国・オランダ・日本(長崎)の被爆者に丹念にインタビューをしている。完成からもう1年が経過しているが、東京・新宿にある小さな映画館で、ようやく上映にこぎつけたそうだ。

韓国の「陜川(ハプチョン)原爆被害者福祉会館」は、広島・長崎で被ばくした韓国の人たちが老後の生活を送っている。日本政府による韓国併合の後、朝鮮半島からは数多くの労働者が日本に来たが、被爆者も7万人を数えた。
広島生まれの李在任(イ・ジェイム)さんは7歳で被爆。戦後祖国に帰ったが身体が不自由で、満足な治療も受けられないままひっそりと暮らしてきた。施設の中では麻痺する身体でやっとのことで食事をし、洗濯物をたたむ。補助具で歩行訓練を繰り返す毎日だ。
原爆のがれきに腕まで埋まったが、母が助けてくれた。だがその後の人生は厳しいものだった。年齢を重ねるごとに麻痺は進み、日常生活は不便を増す。
「死にたいんです」と、かろうじて言葉を絞り出す。

しかし、インタビュアー(撮影・監督の東志津さん)とのつらいやり取りの中にも、ちょっとした茶目っ気をのぞかせる
「上手に撮ってね」とイさん。「きれいに映っていますよ」と応じると、「先生(東監督のこと)はべっぴんさんだね。きれいだ、きれいだ」と笑う。どこにでもいる、73歳の優しいおばあさんの素顔がのぞく。

オランダにも被爆者がいる。オランダ領だったインドネシアからは、日本軍の侵攻後、大勢のオランダ人兵士が捕虜として日本に移送された。長崎にあった収容所で他の連合国軍兵士とともに被ばくした人は少なくないのだ。
エバーハールト・ヘンリ・シュカウテンさんは、長崎で塹壕を掘る作業をしていたときに被爆した。90歳となり、認知症が進んでいるが、原爆投下を語ることばは生々しい。

「上空からゆっくりと、しかし確実に落下してきました。(中略)私はすっかり茫然自失していました。原爆がさく裂すると、私の身体は長崎の地面に叩きつけられ、吹き飛ばされました。(中略)人間が作った得体のしれないもの。人々は原爆を知りました。あの恐ろしい雲を見たのです。人類の破滅につながる出来事を目撃したのです」

シュカウテンさんは帰国後も、原爆のトラウマを抱え続けたという。インタビューの最中にも記憶が混乱する。その都度、同席した息子さんたちが少しずつ軌道修正をしながら、父親を落ちつかせる。父の証言をしっかりと残しておきたいという家族の愛がにじむ。
長男のロブさんが父親に語りかけた。
「お父さん、今重要なことは、あなたがあの戦争を生き抜いたということです。今、あなたがここにいる、そのことが素晴らしいのです。あの原爆を生き延びるのは大変なことだったのですから」
「生きてきたということが重要なんだね」とシュカウテンさん。

被爆者とて一様ではない。シュカウテンさんの人生にとって、被爆は測り知れないほどの大きな出来事だっただろう。しかし彼は愛する妻と息子たちとともに戦後を生き、幸せな家庭を築いた。過去と格闘し、トラウマを乗り越え、生き抜いてきたのである。

上映中、東監督がつけた「美しいひと」という題名の意味をぼくなりに考え続けた。監督は美しいひとたちを選んで取材したわけではない。彼らの壮絶な人生を追ううちに、人とは本来、美しいものであることに気付いたのではなかったか。苦しくとも、つらくとも、命ある限り生き抜こうとする人々の姿に、神々しいまでの美しさを見たのではないか。

映画は、韓国人被爆者のイ・ジェイムさんがラストカットに登場する。小さな鏡に顔を映し、麻痺する手で櫛を入れている。
「おしまい」
そう言って鏡の前を離れ、昼寝を始める。
誰にも日常はある。その日常を大事に生きている人たちは、例外なく美しい。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:22:11 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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カツレツに思う

2014年05月28日 (水)

こんな不幸な事態がなければ、遠く日本にいるぼくたちは、ひょっとしたら一生その名前を知ることがなかったかもしれない。ウクライナ東部の街・ドネツク。豊富な石炭資源などによって、ウクライナ経済の牽引役を果たしてきたが、親ロシア派が州政府庁舎などを占拠し、大統領選挙も妨害するなど、いまやニュースでその名前を聞かない日はないほどだ。

今月初めにこの町を取材に訪れた時、市内の公園にくつろぐ親子たちの姿は平和そのもので、庁舎を占拠する過激なグループは彼らから遠い存在に思えた。事実、何人かにマイクを向けてみると、暴力的な抵抗に眉をひそめる人は少なくなかった。

だが、公園の中のレストランで昼食を注文したとき、ことはそう単純でないと感じることになる。
ウクライナには、鶏肉を衣でくるんであげた「キエフ風カツレツ」という郷土料理がある。中から溶けたバターがトロリと流れ出すハイカロリー食品だが、確かにうまい。このレストランのメニューにそれがあったので頼んでみた。
するとウエイトレスは「少々お待ちください」と言って店長と何やら話している。ぼくらのテーブルに戻って言うには「この店には、ドネツク風カツレツがあります。そちらをお出ししたいと思いますがどうでしょうか」。

出てきた「ドネツク風カツレツ」は、溶けたバターが流れ出すのは同じなのだが、衣でくるんであげてあるのは鶏肉でなく牛と豚のあいびき肉だった。
キエフとは、ウクライナ西部にあるこの国の首都であり、親欧米の暫定政権の拠点だ。そのキエフの名前を冠したカツレツを、親ロシア感情が強いドネツクのレストランは、出すことを嫌ったのだろう。明らかに外国からやってきたとわかるぼくたちの取材クルーにはなおのこと。
この国に潜む深い亀裂を見たような気がして、「ドネツク風カツレツ」のおいしさとはまた別の、ざらついた印象を受けたことを思い出す。

そして、ドネツクはいま、反政府勢力の拠点としてあの時よりも緊迫の度合いを増している。ぼくらも使った国際空港は(取材の時も政情不安で閑散とはしていたが)、過激なグループが占拠し、これに政府軍が武力による制圧に乗り出し、流血の事態が拡大した。穏やかそうに見えたドネツク市民たちが、こぞって反政府感情に駆られるような事態になっていなければよいのだが。

経済のグローバル化は間違いなく進んでいる。国境を越えた経済のつながりによって国と国の相互依存関係は深まり、それは政治的対立の抑止力にもなるという考え方を聞かされたことがある。だが、グローバル化した今の時代にあっても、国家という概念は消えることはない。特に、西側先進国に戦後の国際社会をリードされたと感じる国々は、それを取り戻そうとするかのように、ますます国家主義に走る傾向があると言われる。中国やロシアがそうだ。

ロシアには、ウクライナを失われた領土の一部とみなす空気がある。黒海に面したクリミアを編入することに、プーチン大統領はためらいを見せず、むしろ国家の勢力拡大に高揚感を隠さなかった。そして、ドネツクの親ロシア派が過激な行動をとっても黙認し、いさめる態度をとろうとはしない。一方で欧米は、過激な親ロシア派を非難し、暫定政権への支持を明確にしている。大国の綱引きの真ん中で引き裂かれかねない状況に、ウクライナは依然としておかれている。

だが、ウクライナには間もなく新しい大統領が誕生する。ドネツクなどでは妨害行動によって封鎖された投票所が数多く、選挙は万全とはいかなかったが、圧倒的な支持を得て元外相のポロシェンコ氏が当選を確実にした。そしてロシアも、新しい大統領とは対話に臨む姿勢を見せている。
新しい大統領のもとで、国の内外の対話を進めるべきときに来たということだろう。混乱は尾を引くことも考えられるが、この期を逃せば、ウクライナという国家はアイデンティティーを失って漂流しかねない。

キエフのカツレツも、ドネツクのカツレツも、ともにウクライナの大切なごちそうだ。異なる価値を認め合う国家に戻る日が一日も早く訪れることを、あの美しい国を旅したひとりとして、痛切に願っている。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:17:28 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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珍島(チンド)にて

2014年05月21日 (水)

現場に出て初めてわかることがある。だからぼくは、震災の被災地や、問題を抱える諸外国を、できるだけ自分の足で歩き、目で見、その空気を感じるよう努めている。たとえそれが大急ぎの駆け足だろうとも。

死者・行方不明者300人あまりを出す大惨事となった韓国の旅客船沈没事故。事故から1か月たった先週金曜日に、捜索活動の拠点となっている珍島(ちんど)の港を訪ねた。仁川(インチョン)の国際空港から車で5時間あまり、早朝に東京を出て現場には午後3時前に到着。9時の放送まで、これで多少なりとも取材ができる。
この時点で残る行方不明者は20人。当初の頃に比べれば港で肉親の帰還を待つ家族の数は減ったが、今もテントや学校の体育館には家族たちが傷心のまま待機している。心情を考え、そこに足を向けるのは遠慮した。

一方で、家族を支援するためのボランティアの人たちのテントは、ほとんどその数が減っていないという。港の沿道に拠点を構え、軒を連ねている。企業が抱える形で物資支援を行っているところも多いが、珍島市内の有志の主婦でつくるグループもあった。高校生の子どもがいそうな年代の、そのひとりに話を聞くことができた。

「最後のひとりが帰ってくるまで、私たちはここでがんばります」
彼女は、それが自分の使命だとでもいうふうに言い切った。

港の突堤に出てみる。事故があった南西の方向を見渡せる突堤の手すりには、無数の黄色いリボンが結びつけられている。リボンに書かれた文字の意味を通訳に問うと、「助けてあげられなくてすみません」というものが多いという。

事故の犠牲者の大半は、修学旅行に向かう高校生たちだった。そのことが韓国社会の悲しみを倍加させている。
突堤にはひっきりなしに人が訪れていた。じっと海を見つめている男性がいる。その向こうにはぼくと同年配くらいの女性が、しきりにハンカチで涙をぬぐっている。見渡すと、涙にくれている人があちらこちらにいる。

「多くの若い命を助けてあげられなかったことを、自分たち自身の責任だと思っている国民が多いんですよ」
同僚記者のソウル支局長が言った。
「事故はずさんな安全管理を見逃してきた船会社と行政の癒着のせい。そのような社会を許してきたのは、国民ひとりひとりの罪でもあるのだと」

「最後のひとりが見つかるまでここでがんばる」と話すボランティアの言葉は、その贖罪の意識に通じるのかもしれない。突堤で見たたくさんの人たちの静かな涙も、われ先に逃げ出した船長への怒りも、その感情の裏返しとも言える。

経済にも影を落とす韓国社会の悲嘆。珍島の港に立ってみて、ぼくは少しだけ、その本質が理解できたと思った。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:04 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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