キャスター・アナウンサー BLOG

大越健介の現代をみる

張りつめた緊張の中で

2015年01月28日 (水)

過激派組織「イスラム国」によると見られる日本人拘束事件は、湯川遥菜さんの殺害という極めて残念な経過をたどっている。ジャーナリストの後藤健二さんについても、依然危険な状況が続き、救出の展望は開けずにいる。

後藤さんやヨルダン人パイロットの男性など、人質になってしまった人たちの思いはいかばかりか。救出の責任を負う政府関係者の緊張も多大なものがあるだろう。そして、それを伝える我々も、細心の注意が求められる中で報道にあたっている。
人命を扱うニュースであることに加え、「イスラム国」が繰り出してくる狡猾なメッセージに操られることがあってはならないからだ。

難しさを感じさせられたのが彼らによるタイムリミットの設定だ。当初、日本政府が72時間以内に2億ドルの身代金を支払わなければ2人の人質を殺害すると脅してきた。事柄の性質上、交渉の進展具合がつまびらかにされない中で時間が過ぎていく。焦りから、72時間のリミットをさす23日の午後2時50分を気にするようになる。伝える側も、タイムリミットまであと○時間、などという言い方をしがちだ。

だが、そのリミットとは人質の生死の境を意味する。まるでカウントダウンのようにしてその時刻を待つような印象を与える伝え方は、報道倫理の上から許されない。表現には細心の注意が求められるのだ。
その後「イスラム国」は72時間の刻限を何ごともなかったかのようにやり過ごした。週末に入って突如、湯川さん殺害を示す映像を公開すると、今度はヨルダンに収監されている仲間の死刑囚の釈放を求めてきた。日本と連携するヨルダンを窮地に追い込み、日本を困惑に陥れている。

そもそも「イスラム国」という呼び名を使うことにも議論はある。「イスラム国」は無論、国際社会に認められた国家ではない。日米両政府などは、この過激派組織の以前の呼び名の英語名(ISLAMIC State in Iraq and the Levantイラクとレバントのイスラム国)の頭文字を取ってISILなどと呼んでいるが、支配地を広げたこの過激派組織は昨年、名前を改称(英語名Islamic State 略称IS)した。和訳すれば「イスラム国」である。

そこで我々の報道でもこの「イスラム国」の呼称を使っている。個人的には、彼らが支配地を拡大し、国の形を整えようと企図している現実から目をそらさないためにも、ISIL(ISISも同義)という記号ではなく、「イスラム国」という呼称を使うことは妥当だと思っているのだが、「イスラム国」という呼称は、いきおい日々のニュースの中で何度も登場し、視聴者の耳にすりこまれるようになる。それが、この過激派組織を「国」として広く認識させる手伝いをしてしまうという指摘もある。このあたりは実に悩ましいところなのだ。

もっと突き詰めて言えば、このニュースを大きく取り上げること自体に問題があると指摘する専門家もいる。それこそ「イスラム国」の思うつぼだと。

「イスラム国」は残虐な殺りく行為によって、急速に支配地域を広げ、石油の採掘施設なども支配下において潤沢な資金を得たとされる。恐怖による支配に加え、徴税などを含む巧みな組織運営によって疑似国家としての体裁を整えてきた。
しかし、アメリカ主導の有志連合の空爆や、原油価格の下落などによって弱体化が進んでいるとも言われる。そんなときに打って出たのが、軍事作戦に加わっていない日本の人質を公開し、脅迫するという行為だった。世界はこの蛮行に驚き、さらには協力国ヨルダンを揺さぶり、分断を狙うかのようなその後の要求によって、その狡猾さを改めて思い知らされることになった。

連日、この一連のニュースが世界をかけめぐることによって、グローバルに戦闘員を集め、勢力の回復をもくろむ「イスラム国」にとっての絶好のPRの場にも使われているという見方も、確かにできなくはないのだ。

しかし、人命をことごとく軽視するこの過激派組織の行動をつぶさに報道するのは我々の使命だ。いまなお捕われたままの後藤さんが、いかに細やかで心やさしい報道に携わってきたか。そして日本は、難民などを対象とした人道支援に徹してきたという事実。このことを世界に発信して、「イスラム国」の一連の行為は何の得もないのだという国際世論を形成し、彼らに納得させるという正攻法で行くしかない。

日本時間の今夜遅くには、「イスラム国」が言う、後藤さんの24時間の期限が来る。命の無事を祈りながら、かつ踊らされることなく、冷静に事実を伝えなければならない。(28日午後4時記)

投稿者:大越健介 | 投稿時間:16:07 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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ジハーディスト

2015年01月21日 (水)

「私はそもそも、『イスラム過激派』という言い方そのものが好ましくないと思っているんです。『ジハーディスト』と言うべきでしょう」
ジハードとは異教徒との聖戦を意味する言葉である。番組で取材した中東専門家の保坂修司さん(日本エネルギー経済研究所)はそう指摘した。シリアとイラクにまたがる地域を中心に勢力を伸ばしてきた「イスラム国」を説明する言葉についてである。

確かに指摘にはもっともなところがある。なぜなら彼らが彼らたるゆえんは、イスラムにあるというよりも、テロリストの集団という点にあるからだ。「イスラム過激派」という呼び名を冠して繰り返すことで、イスラム教という宗教そのものに過激というイメージがついて回ることになりかねない。穏健な一般の信者とテロリストを無意識のうちに混同してしまう危うさがないわけではない。

そのイスラム国が、とうとう日本を標的にした。民間軍事会社を経営する湯川遥菜さんとフリージャーナリストの後藤健二さんが人質に取られた。イスラム国のメンバーと見られる黒覆面の男が、2億ドルの身代金を支払わなければふたりを殺害すると脅迫する動画がインターネット上に公開されたのである。

動画にはいろいろと細工が施されていた可能性もあるが、イスラム国の犯行である可能性が高いと政府は判断した。イスラム国をはじめとする「過激」なグループが、中東やアフリカ、そして最近ではヨーロッパで巻き起こしている恐怖の連鎖は、残念ながら日本にも及んだのだ。

この年明け、ちょうどぼくがヨーロッパを取材中に、パリで新聞社「シャルリ・エブド」の乱射事件が起きた。ポーランドでの取材予定を繰り上げてパリに赴くと、今度は食料品店で立てこもり事件があり、おびただしい血が流れた。実行犯はいずれも、イスラム教の名のもとにテロを繰り返す過激派組織とつながりを持つ人物だった。

これを機にヨーロッパでは、イスラム系の移民を排斥するデモや、モスクへの投石などが相次いだ。最初のテロ事件が起きた新聞社は、表現の自由を高らかに歌い上げるように、イスラム教の預言者ムハンマドを描いた風刺画を掲載。フランス国内には喝さいも上がったが、イスラム社会全体への挑発と受け取られると、懸念の声も上がった。
事実、中東やアフリカ、アジアに至るまで、穏健なイスラム教徒の間からも強い抗議の声が上がり、世界は価値観の衝突の様相である。

しかし、ぼくは思う。確かに自らの宗教を侮辱されたと過激な行動に走る人間がいるのは事実だし、表現の自由がそれに屈してはならないのも事実だろう。だが、その対立がエスカレートしてもいいことはひとつもない。実際、世界の多数派は、宗教の多様性を認め、同時に表現の自由も尊重する「中庸」の人たちのはずだ。そしてわれわれ日本人は、そのことを本能的に知っている国民だと思うのだ。

だから、一連の不穏な動きが日本に連鎖を見せたいまではあっても、ぼくらは地に足をつけて構えなければならない。
保坂さんの言う「ジハーディスト」という言葉はまだ耳になじみがないし、日々のニュースは「イスラム過激派」という表現にしばらくは頼らざるを得ないだろう。だが、少なくとも日本では、イスラム教とその信者への誤った偏見が広がることはないと信じたい。仮にそうした危険な動きが出たとしても、社会の良識がしっかりと抑止してくれるに違いないと、ぼくは考えている。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:06 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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オシフィエンチムにて

2015年01月14日 (水)

そもそも、オシフィエンチムというポーランド名がこの地にあったことを、ぼくは知らなかった。ナチス・ドイツが軍靴の音を響かせて占領し、アウシュビッツ強制収容所を建設した場所である。静かな平原の町は、ユダヤ人など少なくとも110万人余りが虐殺される、史上最悪の悲劇の歴史を負うことになった。
第一収容所には、ポーランド軍のかつての兵舎があてられた。ここに連れてこられた人は道がふたつに分かれる。多数は収容すらされない道を歩かされた。そのままガス室に続いている。
当時のガス室が残されていた。
ここで裸にされ、シャワーを浴びせられる。次に天井から降ってくるのは有毒物質だ。空気と反応して死のガスとなり、人々はすし詰め状態のまま死んでいった。遺体は機械的に焼却され、煙突からは煙が絶えなかった。

殺りくの規模がさらに膨らんだのが、第二収容所のビルケナウである。鉄道の引き込み線が引かれた「死の門」はあまりにも有名だ。ここを通って、ヨーロッパ各地からユダヤ人たちが貨車で運ばれてきた。
ここでも選別が行われ、労働に「使えない」と判断された主に子どもや老人、女性がガス室に連れて行かれた。「収容所が満杯だから」というときには選別もなく、全員がガス室に送られた。

何ということだ。
アウシュビッツを見て回りながら、足がどんどん重くなっていく。
遺体からはぎ取られた髪の毛の束が、うず高く積まれていた。これでもごく一部だ。髪の毛は繊維製品などの原料として「出荷」されていた。金歯や銀歯などもそうだ。カネになるもの、原料になるものは人体から容赦なくはぎ取られた。その仕事を請け負わされたのは、収容されたほかならぬユダヤ人たちである。
金銀の取引を示すタイプ書きの書類が展示されていた。実に淡々と、それは書かれていた。

「この金は、いまの私たちの身近にあるかもしれないんですよ」
アウシュビッツ博物館のただひとりの日本人ガイド、中谷剛さんが言った。確かに、遺体からはぎ取られた金銀は延べ板となって世界に流通したはずだ。その一部が私たちの身の回りの品に含まれている可能性はある。
そこまで考えをめぐらせた瞬間、アウシュビッツの悲劇は現代にそのままつながっているのだと理解した。背中に電流が走った。
アウシュビッツは、人体を原材料としてさまざまな物を産出する巨大な工場のようなものだと感じた。人は原材料である限り、人であることはできないのだ。

しかし、同じ人間がどうしてここまで残虐な行為に手を染めることができたのか。
「それは、私にもわからないことです」
中谷さんは言った。日々アウシュビッツと向き合う中谷さんをして、考えれば考えるほど分からなくなるという。
ただ、こうは言えるかもしれない。
ナチス・ドイツに限らず、人間とはそうした愚かな行為に走る可能性を持った存在なのだと。そのありのままを、アウシュビッツは我々に教えてくれる。

一方で中谷さんは、「救いもある」と言う。
アウシュビッツを訪れる人たちは年々増えているという。ぼくが見学した時も、目を真っ赤にしたドイツからの若者のグループに会った。見学者はひっきりなしに訪れていた。
ポーランドがEUに加盟した2004年以降、その傾向が顕著になってきたという。EUは博物館の維持のための財政的な支援だけでなく、さまざまな啓もう活動にも取り組んでいる。アウシュビッツは風化することなく、教育の施設としての役割をむしろ増しているという。
あの惨劇を、ナチス・ドイツとユダヤという関係に限定することなく、人類が等しく陥りかねない現実として共有する取り組みは、地道に、しかし着実に進んでいるのだ。

ぼくがアウシュビッツを訪れたその前日に、フランスでは新聞社の乱射事件が起きた。屈折した様々な思いのなせる業ではあったのだろう。しかし、よどんだ負の感情が暴発する前に、人類はこのアウシュビッツを訪ねるべきだ。
ここにはすべての答えがある。鉛を呑み込んだような思いの中で、ぼくは痛切にそう思った。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:21 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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インタビューを拒むひとがいない

2015年01月07日 (水)

年越しはイギリスのスコットランドで迎えた。
スコットランドを訪ねたのには理由がある。前年9月、スコットランドの独立を問う住民投票のニュースに世界が注目した。結果は独立賛成の票が45%にとどまり、キャメロン首相率いるイギリスの中央政府はホッと胸をなでおろしたものだった。ところが、独立支持の動きはそこで一旦しぼむのかと思いきや、むしろ広がりを見せているともいう。
安定した先進国であるイギリスから、そこまで多くの人たちが独立を熱望している現実は驚きだった。その理由を、わずかではあってもこの肌で感じたいと、取材の機会をうかがっていたのである。

スコットランドの中心都市・エディンバラ。
街の歴史の象徴・エディンバラ城へと続く「ロイヤル・マイル」の沿道には、民族衣装のキルトや、スコッチ・ウィスキーを売る店が軒を連ねる。街のそこかしこで風に揺れているのは、イギリス国旗のユニオン・ジャックではなく、青地に白のX字が描かれたスコットランド旗だ。「ここはスコットランドという『国』なのだ」と、無言で主張しているように見える。

スコッツマン(SCOTSMAN)という最もポピュラーな地元の新聞を開いてみた。この日は特別号で58ページの大部の構成だったが、ページをめくっていっても、イギリス中央政府やイギリス全体の経済に関連する記事にはほとんどお目にかかれなかった。天気予報もスコットランドに限られている。この5月に開かれるイギリス総選挙の展望記事の中に、保守党・労働党という二大政党の動静がわずかに触れられているのみである。

そして、何より驚いたのが、ぼくたち取材クルーが声をかけると、インタビューを拒むひとがほとんどいないことだった。
エディンバラのパブでのこと。客の老若男女を捕まえてインタビューを試みる。くつろぎの場所に入り込んだわれわれテレビクルーは、ちょっと迷惑な存在には違いないのだが、声をかけるとみな気さくに応じてくれる。テーマは独立運動のその後についてだ。
意見の分かれる政治テーマについてインタビューする場合、「勘弁してくれ」という反応は世の東西を問わず多いものだが、ここでは誰もが嫌な顔一つせず、しかも真剣に答えを紡いでくれる。

意見はさまざまだ。独立賛成の人が多い印象だが、「そう簡単に白黒は付けられない」と思案顔の若者もいる。だが、これらのインタビューを通じてひしひしと感じたのは、彼ら、彼女らのいわば政治的な覚醒と成熟である。
独立を問う住民投票には、スコットランドの85%の有権者が参加した。通常の選挙よりもはるかに高い投票率だという。愛するスコットランドが「イギリス連合王国」という枠組みを離れるべきか、いやとどまるべきか。そのことによる政治、経済、安全保障上のメリットとリスクは。何より「国」としてのアイデンティティーはどうあるべきなのか。
それらを懸命に考えた人が、それだけの数字にのぼったのだとも言える。

投票に臨むにあたって自らの考えを突き詰めた人は、「言葉」を持つようになる。堂々とした「言葉」を持っているからこそ、インタビューを拒む必要はない。独立への賛否は別にして、「われわれは85%もの投票率のもとで、ひとつの答えを出したのだ」という誇りを、ほとんどの人が口にした。

スコットランドの独立の動きが今後、どうなるかを予測するのは難しい。一時は独立派優勢ともいわれた先の住民投票で十分肝を冷やしたに違いないキャメロン首相が、再び住民投票を許すとは考えにくいし、仮に独立への流れが何かのきっかけによって加速したとしても、ひとつの正式な「国」を作る作業は容易ではない。新たな意見の衝突もあるだろう。
だが、この民主主義の先達たちは、意見の衝突があっても互いを尊重する流儀を心得ている。独立が否定された住民投票の結果を、全員が粛々と受け入れている。そしていずれまた、同じテーマでひとりひとりが判断を下す時が来ることを予感しているようにも見えた。

年の終わり、エディンバラの街は、ホグマニーと呼ばれる祭りに彩られる。圧巻は、伝統のバグパイプ奏者たちに率いられた、何万人もの人々の行進だ。たいまつを手にした市民に観光客たちも加わって、2キロ近くに渡って凍てついた夜の街を練り歩いていく。
少し高いところから祭りを見下ろすと、たいまつの河がどこまでも流れていくようだ。
民主主義とは時間がかかる手続きだ。だが、その先にはやはり希望もある。炎に顔を照らしながらゆっくり歩みを進める人々の列が、そのことを暗示的に物語っていた。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:22:08 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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1年の感謝をこめて

2014年12月24日 (水)

われながら、鏡に映った姿を見て苦笑いをすることがあります。
年齢相応に刻まれたシワ、年齢不相応な食欲によってついてしまった貫録。どうにも野暮ったいオジサンです。世の中の森羅万象と向き合うにはどうも切れ味に欠けるように思えてしまいます。
そんな自分ではありますが、ことしも1年を無事、乗り切ることができそうです。その原動力となったのは、多くの方々から寄せていただいた励ましやアドバイスの手紙でした。どれほど助けられたことでしょう。
お返事が追いつかない自らの筆不精を棚に上げ、この場をお借りして心から御礼申し上げます。ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。

災害の被災地をはじめ、国内外のニュースの現場にできるだけ足を運んでいることを、評価してくださる方がいました。
「臨場感があって、よく伝わりますよ」
「あなたの目が、私たち視聴者に真実を伝える一番の媒体です」
ありがたい言葉です。これからも「行動するキャスター」であることを肝に銘じていきたいと思います。丁寧に取材に応じてくださる人々への感謝の気持ちを忘れずに。

「スポーツコーナーになると、表情がすっかり変わってしまいますね」とおっしゃる方も少なくありませんでした。根っからのスポーツ好きが顔に出てしまうようです。
でもちょっと反省もしました。つまり、スポーツコーナーに入るまでの伝え方が堅苦しいということの裏返しかもしれません。もちろん、つらいニュースを微笑みとともに伝えることはできませんが、もっとやわらかく、自然体で伝える姿勢を持つべきなのかもしれません。肩肘を張るのではなく、ひとりの人間として日々の出来事に平たい目線で寄り添う。そんな番組にしていきたいと思います。

ぼくが番組で発するコメントを、やさしく支持してくださるお手紙もたくさんいただきました。
「最後の1、2行の『しめ』の言葉に、そのニュースの意味と課題が込められていると感じます」
ぼくからすれば「そこを見ていてくださったか」と、心から嬉しい気持ちです。
ニュース項目の前後にスタジオで語るコメントを考えることは、ぼくの日々の仕事の中でも最も大切な部分です。そのコメントによって、ニュースの意味を視聴者と共有し、ときにはさらなる問題を提起することができるからです。

でも、押しつけがましいコメントはすべきでないと思っています。私見を押しつけることなく、公正公平を保つことがニュースの生命線だと思うからです。
そこに、こんな言葉もいただきました。まさにぼくがこうありたいと願っている気持を、ぴたりと言い当ててくださっています。
「ニュースキャスターは、経緯とともに、普遍的価値を伝えていくものだと思います。ご活躍を」

自分が、物ごとの「普遍的価値」などというものを語れるほど立派な人間でないことは百も承知しています。ただ、ニュースにたずさわる者として、そのニュースにどのような意味があるのかを公平公正な立場で考え、視聴者の「気づき」のお手伝いをしたいと願っているのは事実です。そんな思いで懸命に紡ぐことばが、視聴者のもとにしっかりと届くならば、キャスターとしてそれに勝る幸せはありません。

もちろん、厳しいことばもいただきます。自分は理想の足元にさえ届いていないと、しょんぼりしてしまうこともしばしばです。
でも、きょうに限って厳しいことばは忘れることにします。オジサンになっても、どこか心が浮き立つのがクリスマスイブ。皆さんからの温かい励ましのことばを一番のプレゼントと思い、きょうはせめて、その中に埋もれていたいと思います。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:58 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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緊張してます

2014年12月17日 (水)

ぼくはいま、番組のキャスターになって以来、いちばんと言っていいくらい緊張している。けさもまだ暗いうちから目が覚めてしまい、深呼吸したりしてなんとか二度寝に挑んだのだがそれもかなわなかった。

きょうはこれから女優の吉高由里子さんにインタビューをする。場所は東京・六本木の東洋英和女学院の校舎を貸していただく。吉高さんが演じた「花子とアン」の主人公・翻訳家で児童文学家の故村岡花子さんが学んだ、あの気品高く厳格な女学院である。

インタビューに臨んでは、当然、相手のことをある程度研究する。吉高さんは「花子」を演じる以前にも、若手演技派女優として一目も二目も置かれた存在だった。

初主演となった2008年の映画「蛇にピアス」では、痛みを感じることでしか生きる実感を得られない女性の哀しみを体当たりで演じ、話題をさらった。かと思えば学園もののラブコメデイなどでも独特の存在感を発揮し、同世代のわが息子たちなどは、「ヨシタカ」というだけでどこか遠い目になる。20歳代の彼らにとって「青春」を実感させる女優のひとりらしい。

演技の幅の広い天才肌。一方で彼女のツイッターなどに目を通すと、繊細な感情の持ち主であることがよくわかる。

そうなると、報道という堅い世界で生きてきた、凡庸な上にも凡庸であるこのおじさんに、はたしてインタビュアーが務まるのかと不安になるのだ。彼女も、どうして自分がNHKのニュース番組なんかに出るのかしら、と頭の中が?マークでいっぱいかもしれない。年末の忙しい中、時間を取ってもらっちゃって、申し訳ないな・・・。
気の弱いぼくは、そうやって勝手に緊張を高めていくのであった。

彼女をニュースウオッチ9のインタビューに引っ張り出した理由は簡単だ。要はことしいちばん輝いた、「ニュースな女性」と考えたからだ。
その見立てが外れていなければ、たとえインタビュアーがさえなくても、彼女の魅力は十分伝わるはず、そう考えるようにしよう。

それに、吉高さんが演じた「花子」にはぼくも思い入れがある。まだ中学一年生だったころ、初めて読書の面白さに目覚めたのが、ほかならぬ、村岡花子訳の新潮文庫版「赤毛のアン」シリーズだった。そんな縁からポツリポツリと話を進めていけば、だんだんと会話もほぐれていくに違いない。

思えば、この50がらみのおじさん(ぼくのこと)は、これまでもかなり意外な人物にインタビューをしてきたではないか。気難しい女優の代表格とさえ言われた沢尻エリカさん、人気ナンバーワン、大河ドラマの主役もこなした綾瀬はるかさん。先日はあの吉永小百合さんにもお会いした。そうだ。かつてはレディー・ガガさんにだって果敢にマイクを向けたものである。

そのいずれも緊張はした。だが、終わってみると「インタビューをしてよかった」と実感したものばかりだった。視聴者にも好評だった。
だから、ちょっぴり自信を持とう。堂々と、そして笑顔で吉高さんの話を引き出そう。彼女が少しでも心の垣根を取り払ってくれたなら、その瞬間に輝く言葉が出てくるはずである。

現金なもので、そう考えるとだんだん楽しみになってきた。おっと、そろそろ時間だ。着替えて現場に向かわなければ。
さて、どんなインタビューになりますやら。今回は編集に時間をかけようと思っているので、放送はあさって以降になる予定。乞うご期待、です。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:22:15 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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世論調査されました

2014年12月10日 (水)

衆議院選挙が近づくと、特に盛んに行われるのが世論調査である。
大手マスコミはだいたい、有権者の投票動向を探るための世論調査を行う。加えて、投票意欲や関心のある政策などを訊ね、その選挙の争点や伝えるべき論点を考察する。
マスコミだけでなく、政党も独自の世論調査を行うことがあるので、これだけの調査ラッシュになるといつか自分も当たるのでは、と思っていたらドンピシャだった。3日前の日曜日のことである。

たまの休み、まるでトドのように(と家人は言う)居間でゴロゴロしていたら、家の電話が鳴った。日曜日の昼下がり、かかってくる電話はだいたい投資の勧誘のたぐいと相場は決まっているので、「面倒だなあ、よっこらしょ」と立ち上がって受話器を取ると、機械的な女性の声が流れてきた。自動音声である。

「・・・調査を行っております。ご協力をお願いします」
いきなり耳に飛び込んできた無機質な声に面食らい、冒頭を聞き逃してしまった。どこの何の調査なのかわからない。あるいは、そもそも言っていなかったのかもしれない。
「あのう、どちらさまの調査ですか?」と聞き直そうとしたが、相手は自動音声である。手ごわい、というか当然ながら会話にならない。こちら慌てている間に、「質問を開始します」と、たたみかけてくる。

最初の項目は、衆議院選挙の投票意欲についてだった。
「衆議院選挙の投票には行きますか」と聞いてきた。このあたりから落ち着いてきた。
「必ず行くという方は○番を」と相手が言うが早いか、たちまち態勢を立て直したぼくは、相手が指定した○番を速攻で押してやった。どうだ。

次の質問で相手は踏み込んできた。でも声はあくまで冷静である(当たり前か)。ぼくの住んでいる選挙区の候補者名を挙げ、「あなたはどの候補に投票する予定ですか」と、ズバリ聞いてきた。
だが、ぼくはひるまなかった。意中の候補名の番号を、これまたすばやく押してやると、もうこちらのペースである。どんと来い。どんなややこしい質問でも受けて立とうじゃなか。

そしたら、もう質問は終局を迎えつつあった。
「あなたの年齢をお答えください」
指定された50歳代の番号を押す。
最後は性別を聞いてきた。女性を装って意地悪しても意味がないから、これまた張り合いなく男性の番号を押す。そしたら、「ご協力ありがとうございました」と言って電話は切れてしまった。なんだかあっけなかった。

一般論だが、世論調査は、上記のように「誰に投票するか」というそのものズバリを問うものだけでなく、関心のある政策、比例代表の投票予定政党、内閣を支持しているかどうか、ふだんの支持政党はどこか、といった多岐にわたる質問項目を含むものが多い。
そうして得られるデータを様々に組み合わせて分析をするのだ。それによって、たとえば、「○○党はふだんの支持している有権者の何割程度を固めた」、などといった情勢をつかんだりする。あるいは、この政策に関心がある有権者は、どの政党を支持する人が多い、といった傾向も把握できるというわけだ。

ぼくがたまたま受けた調査は、この選挙区の情勢に的を絞ったかなりの「簡易型」と言えるのかもしれないが、経験値を重ね精度を増した世論調査は、有効な手段としていまやマスコミ報道に欠かせない存在となった。

もう30年近くも前、ぼくが駆け出し記者のころは、まだ、世論調査の存在感はここまでのものではなかったように思う。地域に必ずいる選挙のプロとも言える人を探し出し、その人の読み(あるいは勘)を聞いて回ると、むしろその方がぴたりと当たる、というようなケースがしばしばだった。
なにせそうしたプロは、ある候補者の集会に集まった人の数や表情だけで、おおよそ結果の見当をつけることができたりする。そこまでできるということは、つまりは地域の実情や人脈などを知り尽くしているからにほかならない。その人への取材は、選挙結果を占うのにとどまらず、記者にとっては地域を知る上での重要な財産ともなるのだ。

世論調査というものを受ける側に回ってみて、わずかな肩すかし感とともに、そんなことを思い出していた。
各種の調査によると、今度の衆議院選挙への投票意欲は高いとは言えない。投票率は近年にない低さになるのではと予測する人もいる。せっかくの選挙なのに、これではもったいない。
精度を増した世論調査だが、投票率だけは予測を大きく裏切ってどんどん伸びてほしいと、長らく政治報道に携わってきたぼくは思う。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:55 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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ダメよ~ダメダメ

2014年12月03日 (水)

そもそも「ダメよ~ダメダメ」とはいかなる意味があるのか。いまのニッポンにおいて、どのような時代背景がこの言葉を流行語に押し上げたのであろうか。

ま、そんなヤボなことはさておき。
このフレーズ、要するにことし一番多くの人が口にした(たぶん)言葉であり、年末恒例の「新語・流行語大賞」に選ばれた。幼稚園児までこの言葉が大好きだ。ウチの近所にもそんな子がいる。「ダメよ~」とクネクネしたりするものだから、お母さんに怒られている。
「調子に乗って何やってんの。ダメよ!ダメダメ!」

この言葉がはやり出してから、ぼくもよく口にする。しかし、おもに演歌の歌詞として、である。記憶が刺激されたのだ。
森進一さんの「年上の女」。わかるかなあ。ちなみに「女」は「ひと」と読む。
♪放したくない つらいのよ
 だめよだめだめ つらいのと
 泣いてすがった 年上の女♪
このさびの部分、森進一ワールドの中でも最もシブく泣けるところである。この場合、「ダメ」でなく、ひらがなの「だめ」でなければならない。だって悲しい女ごころですもの。口ずさんでいると、なぜか自然と物まねが入るのも特徴である。
この歌を知らない世代の井上あさひキャスターが、そんなぼくを迷惑そうに見ている。どうも仕事の邪魔になっているようだ。
「歌っちゃダメ?」
「だめです」
冷たく言われてしまった。

「ダメよ~ダメダメ」が新語・流行語大賞に選ばれたというニュース、そもそも原稿の読み方が難しい。
「今年の大賞に、中年男性に口説かれた女性ロボットが、誘いを断るときに発することば『ダメよ~ダメダメ』が選ばれました」。
この原稿を、しかめっ面で棒読みするのは危険である。あまりにもちぐはぐだ。しかも、読み手の方が思わず噴き出すおそれがある。かといって、受けをねらって「ダメよ~」と、それこそ幼稚園児のようにしなを作ってしまうと、ほぼ確実にスベる。
どちらにしても、視聴者のみなさんから「ダメ出し」されることは間違いない。

やはり、このフレーズが日本中を席巻した意味があるはずだと、識者の意見を調べてみる。選考委員も務めた俵万智さんは、この「煮え切らない押し問答」こそ、ことしの世相そのものだという。
「さまざまなふしぎな記者会見や(筆者注・ゴーストライターとか、いわゆる号泣県議の会見のことか)、政治とカネの問題など、この1年、歯切れの悪い押し問答が繰り広げられたので、ことしを象徴する流行語だと思います」
なるほど。さすがである。これで納得した。

ということで、今回はこれにてさようなら。

え?ひとの言葉を借りて締めようなんて虫がよすぎる?
そうですよねえ。すみません。実は、テーマの食いつきの良さから、とりあえずこのコラムを書き出したのですが、なかなかオチが見つからなくて四苦八苦しているのです。
だからこのへんで、
「いいじゃあ、ないの~」
「ダメよ~、ダメダメ」

投稿者:大越健介 | 投稿時間:19:37 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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うれしかったこと

2014年11月26日 (水)

この歳になれば、それなりに苦労も多い。
あちら立てればこちら立たずで、人間関係には神経を使うし、世の不条理には腹立たしい思いばかり。おまけにこの数週間は腰痛も出た。憂うつのタネは数えきれない。あれやこれや考えて、まんじりともせず夜を明かすときもある。
だが、である。
こんな時こそ、楽しかったことやうれしかったことを思い返してみよう。人生捨てたものではないと言い聞かせ、背筋を伸ばして生きていこう。よし。

最近うれしかったこと。
「趣味は何ですか」と聞かれて「家庭菜園です」などと答えているわりには、忙しさにかまけて、庭の畑に目を配ることを怠っていた。白菜が無残にも虫に食われ放題なのは知っていたが、しょうがないとほったらかしにしていた。
しかし、野菜は実にたくましく育っていた。水菜が盛んに葉を茂らせている。この冬は鍋もので活躍してくれること請け合いだ。ブロッコリーは小さな花蕾をつけていた。順調に行けば、売り物にひけをとらない大きさになるはずだ。
そして、虫の餌食になっていた白菜も、内側から伸びてきた若い葉っぱが結球を始めている。売り物よりはふた回りほど小さいが、わが家の食卓には十分だ。

もうひとつうれしかったこと。
群馬・高崎の友人宅に夫婦で招かれた。豚のしゃぶしゃぶをふるまってくれた。これが美味いのである。
この豚肉、この友人夫婦が生産したもの。ハーブ飼料で育てるこだわりの無投薬豚は、食の安全とおいしさを求める消費者の間に徐々に浸透し、有名レストランなどからも引き合いが来るブランドとなった。
しゃぶしゃぶをしながら驚く。いわゆる灰汁(あく)がほとんど出ない。肉から出る脂はすっきり澄んで、ぐらぐら長時間火にかけても鍋の中は濁ることを知らない。育ち盛りの子どもみたいに大いに食べた。
農協を頼みとせず、自立して生産と販路開拓に挑む苦労と誇り。話を聞きながらその信念と覚悟の程に驚く。もともと息子どうし(彼らの末っ子、ぼくらの長男)が何年か前に東京の同じ野球強豪校にいて、スタンドで息子のチームの「追っかけ」をするうちに自然と親しくなった。この歳で、利害関係抜きに自然発生的に友だちができたこと。それ自体がうれしい。

仕事でうれしかったこと。
衆議院が解散された。だが、政治家の発言からは、東日本大震災という言葉が発されることがめっきり減った。それでいいのかと違和感を持った。
山形や新潟などに、原発事故以来、自主避難をしているお母さんたちが依然多く暮らしている。ぼくはそのことがずっと頭にあった。行くなら今と、「りとる福島」という山形市の自主避難者の組織を訪ねた。
山形の自主避難者はピーク時の3割以下に減った。福島に戻る人が増えたためだ。
しかし、残る人には残るだけの事情がある。放射性物質を恐れる気持ちに加え、生活の基盤がすでに山形にできてしまったという人も多い。
そして彼女たちの心を苦しめるのが、放射能を語ることのタブーである。
時に、「勝手に逃げた人でしょ」と冷たい視線を送られることもある。避難区域に家があり、逃げざるを得なかった人とも、彼女たちは微妙に立場が違う。それが、放射能を口にすることをためらわせる。人に言えない悩みを語り合える場、それが「りとる福島」だ。
番組で彼女たちの思いを伝えた。放送後、取材を共にしたディレクターのもとに、彼女たちから電話が入った。
「だんだん私たちの存在は忘れ去られていく。それを伝えてくれただけでありがたかった」
ぼくはそれを聞いてうれしかった。
震災の爪痕はまだあらゆるところに残っていて、悩みは多様化、細分化している。そのすべてを伝えきれない、引け目に近い感情がぼくにはある。それでも彼女たちは、「ありがとう」の言葉を返してくれた。

キャスターになって4年半と少しが過ぎた。休みをつぶしてあちこち取材に出かける生活。疲れが出るころではある。でも、気力と体力さえあれば、自分で足を運び、伝えられることはまだまだある。背筋を伸ばし、肩で風を切って仕事をするのだと、決意を新たにする。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:20:21 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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正しい原因に生きる

2014年11月19日 (水)

安倍総理大臣が衆議院の解散に踏み切った。
景気回復が足踏みをしているので、来年10月に予定されていた消費税の10%への増税を延期する。その決断について、国民の信を問うというのが総理の説明である。

これにはいろいろな批判が出ている。
解散の大義がないというのが一番多い。消費増税の先延ばしは、法改正を伴うとはいえ総理の判断でできること。師走の忙しいときに大金をかけて選挙を行うより、腰を据えて経済対策をやるべきだと。
また、そもそも消費税引き上げは社会保障費の確保であり、将来世代の負担を減らすためにも、多少の景気動向に左右されずに断行すべきだという声も根強い。

いわゆる「党利党略」に過ぎないという批判もある。
前回の選挙から2年。任期満了まであともう2年を残しての解散は、野党側の体制が整わない間隙を縫ったもの。つまり政権の延命目的ではないか、と玄人筋は読む。消費税増税はもはや争点にはなりえず、野党は攻め手を欠く。与党が圧勝した前回選挙には及ばなくても、それほど大幅に議席を減らすとは考えにくい。いま選挙をクリアしておけば、政治とカネといった厄介な問題をリセットでき、政権の寿命は延びるという見方である。

どれも一理あるが、どれも十分なものではなさそうだ。
総理が解散を決意するにあたって政略があるのは当たり前だし、税制の変更は国民の信を問うに足る重大事態だという総理の説明も、道理は道理だ。

けさ民放のワイドショーを見ていたら、出演者たちが「何のための解散なんだ」と批判を繰り広げる中で、ひとりのタレントが「でも、有権者に問われているのだから、ぼくたちはきちんと一票を行使すればいいだけではないか」と発言した。
ぼくは、その意見に同感だ。

好きな詩がある。
彫刻家であり、詩人だった高村光太郎の「火星が出てゐる」の一節。
「予約された結果を思ふのは卑しい。
 正しい原因に生きる事、それのみが浄(きよ)い」

この場合、「予約された結果」とは何か。政権与党は負けても小幅、安倍総理にとって選挙を経てリセットできるメリットが大きいという読み筋が、それにあたるのかもしれない。だとすれば、取らぬ狸の皮算用と言った方が正しいかもしれない。そのあたりの読みはプロにお任せしておけばよい。

ぼくたち有権者にとって大事なのは、「正しい原因に生きる事」だと思う。
「選挙結果なんてどうせ知れている」などと、評論家の受け売りをし、思考をストップさせてはならない。「たかが一票。投票してもしなくても同じ」と無関心になることはもっと良くない。せっかく総理がわれわれに政治参加の機会を提供してきたのだ。大いにそれに応えようではないか。

アベノミクスってちゃんと進んでいるのか。そうでないとしたらどんな手段があるのか。野党はどんな対案を示しているのか。
集団的自衛権の行使ってなんだろう。それで日本は安全になるのか危険になるのか。
東日本大震災と原発事故の教訓はどうなったのか。
中国や韓国といった近隣諸国との付き合い方は。
テーマは山ほどある。
自分のこと、自分の家族のこと、自分の地域のこと、そして自分の国のこと、世界のこと、さらには自分の次やその次の世代のことを考えながら、そのひとつひとつに自分なりの見解を持ちたい。それが無理でも、選挙をきっかけにまずは考える作業を始めることこそ、「正しい原因に生きる事」ではないか。

そうして紡ぎだされた一票は、数字としては微々たるものかもしれないが、結果はどうあれ、考える有権者の集団の誕生をうながす。それこそが、以後の社会を大きく成長させる原動力になると思うのだ。

投稿者:大越健介 | 投稿時間:18:21 | カテゴリ:コラム | 固定リンク
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