2016年7月29日(金)

阿久悠の日記 昭和歌謡の巨人 知られざる苦悩

田中
「これは、かつて一世をふうびした人物が、亡くなるまでの27年間にわたって書き続けた日記です。
およそ1万ページに及びます。
日記を書いたのは、昭和の歌謡曲で数々のヒットを生み出した、作詞家の阿久悠さんです。」

河野
「亡くなってまもなく9年、日記の全容が明らかになりました。
類いまれなヒットメーカーが、人知れず抱えていた苦悩が見えてきました。」

昭和歌謡の巨人 苦悩の末 あの名曲が

日記は1981年、昭和56年の元日から始まります。

“『雨の慕情』で5回目のレコード大賞受賞。
明け方4時近くまで飲み語る。”

作詞家・阿久悠。
昭和の歌謡界で、誰よりも多くのヒット曲を生み出しました。

『雨の慕情』 八代亜紀
♪“雨々ふれふれもっとふれ
私のいい人つれて来い”

『また逢う日まで』 尾崎紀世彦
♪“ふたりでドアをしめて
ふたりで名前消して”

「どうにもとまらない」山本リンダ

時代は高度経済成長期。
阿久さんの歌はことごとくヒット。

『どうにもとまらない』 山本リンダ
♪“もうどうにもとまらない”

阿久さんが産んだスーパースターが、「ピンク・レディー」。
ミリオンセラーを連発しました。

『UFO』 ピンク・レディー
♪“地球の男に あきたところよ”

その生涯に作詞した歌謡曲は5,000曲。
しかし、80年代以降、大ヒットは次第に影を潜めます。

当時、アイドルやシンガーソングライターが次々と登場。
時代が求める歌も変わっていったのです。




その頃に書き始めたのが、日記でした。
時代の風をつかもうと、日々のニュースを記しています。

気になるニュースは、新聞の切り抜きも。





株価や円相場の細かな値動きまで記録していました。
日記は、どう創作に生かされたのか。
生前、阿久さんが語る映像が残っていました。

阿久悠さん
「日記ってどういう役割を果たすかなと。
怠けさせないため、神経が眠らないための、高ぶったままでいられるための材料にしようと。
アンテナが立っているかってことが重要。」

しかし、1984年の暮れから、苦しい心情を示す記述が増え始めます。

“精神状態がひどく悪い。
居直ることと、割り切ることと、対することをいつの間にか忘れてしまったようで、自己嫌悪にかられる。”




“今日は何も記したくない。
『逆境を好機に変える天才』という言葉を信じるのみ。”

「逆境を好機に変える」という言葉は、その後、何度も日記に登場します。
47歳の時でした。
その言葉は、死後見つかったメモにも残されていました。

阿久さんの長男 深田太郎さん
「父が書いたメモ。」

長男の深田太郎さんです。
家族に悩みや愚痴を打ち明けることがなかった阿久さん。
日記にも同じ言葉が何度も記されていたことが、意外でした。



阿久さんの長男 深田太郎さん
「逆境を好機に変える天才という言葉を信じるのみと、祈っている。
阿久悠の祈りの言葉なのかもしれない。」



阿久さんの日記は、昭和の文化史を知る上でも貴重な資料として、専門家が注目しています。





太郎さんは、父の知られざる素顔を知りたいと、日記の研究会に参加しています。





明治大学 吉田悦志副学長
「阿久悠さんにとって、逆境というのはいったい何だろうか。」




明治大学 阿久悠記念館 村松玄太さん
「逆境と聞くと、具体的に何かネガティブな事実があって、その状態を超えるためになんとか好機に変えるというイメージがあるが、そんな具体的なものがあった感じがしない。」



ヒット曲が出ない中、阿久さんは作詞家から作家に活動の軸足を移していきました。
84年の夏には、自分の少年時代を描いた自伝的小説が映画化されています。



それでも阿久さんは満足できませんでした。
ヒット曲を出すことに、こだわり続けていたからです。
かつて阿久さんと仕事を共にした、作家の三田完(みた・かん)さんは、当時の心境をこう分析します。



作家 三田完さん
「新しいヒット(曲)を作ってないと、満たされない気持ちはあるでしょう。」




ヒット曲が書けないという逆境。
それでも作詞を続け、日記には歌のアイデアがいくつも残っていました。

当時、日本はバブルへと向かっていました。
高級なブランド品がステータスになり、ぜいたくな暮らしが広がり始めていました。
逆境の中、阿久さんは時代に背を向けるような歌を書いたのです。



『時代おくれ』 河島英五
♪“妻には涙を見せないで
子供に愚痴をきかせずに”

浮き足だった時代に、あえて不器用で控えめな男を描きました。


『時代おくれ』 河島英五
♪“目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは無理をせず
人の心を見つめつづける
時代おくれの男になりたい”

「逆境を好機に変える天才」と祈り続けた作詞家・阿久悠。
この曲が最後の大ヒットとなりました。

その後、バブルは崩壊。
日本は、長い低迷の時代を迎えました。
そして2007年。
阿久さんはがんで亡くなる半年前、一編の壮絶な詩を日記に書き残しています。


“死ぬな まだ死ぬな
まだまだ求められている
書けば誰かが喜ぶ
書けば道が出来る


道はつづく”





それから9年。
今も阿久さんの歌は、多くの人に愛されています。




「知っていて、気づいたらいい歌は阿久悠さんの曲だったという感じ。」

「後から聴いても響く深みがある。」

歌謡曲とは何か。
生前の阿久さんの言葉です。


『歌謡曲の時代~歌もよう人もよう』より
“歌謡曲は時代を食って色づき、育つ。
歌謡曲のない時代は不幸な時代である。
歌謡曲よ、目を覚ませ。”

“逆境を好機に変える天才”

河野
「懐かしい曲ばかりでしたね。
阿久悠さんというと、当時なんでこんなにヒット曲ばかり書けるのかと不思議だったんですが、これほどの苦悩を抱えていたとは全然知らなかったですね。」

田中
「私にとっては、阿久悠さん自身についてはほとんど知らなかったんですが、今こうして聴いていると知らない曲のほうが少ないくらいで、本当にすごい作詞家さんだったんだなと思いますね。」

河野
「時代を追いかけた阿久悠さんにとって、結局、逆境を好機に変えたのが『時代おくれ』という曲だったというのは、本当に皮肉な話だと思うんですが、日記を通して時代を追いかけていく、見つめていくという姿はすごく教えられるところが多くて、本当にすごい作詞家だったと思います。」

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