2017年5月5日(金)

戦争孤児12万人の戦後史に迫る

桑子
「今日、5月5日は、こどもの日。
祝日に制定されたのは、今から69年前の昭和23年のことです。」


 

有馬
「実は当時、こどもをめぐって大きな社会問題がありました。
こちらなんです。
戦争で親を失った『戦争孤児』。
昭和23年といいますと、終戦から3年たっているわけなんですが、駅や繁華街では、まだたくさんの孤児たちが路上生活をしていました。」

桑子
「当時の調査では、この戦争孤児は12万人あまり。
その存在は知られていましたが、戦後どのように生き抜いてきたのか、孤児自身が語らなかったこともあり、実態はよくわかっていません。
今、その空白を埋めようと、戦争孤児の調査が始まっています。」

戦争孤児たちの戦後史 ある日突然孤児に…

リポート:中村光博(ニュースウォッチ9)

今年(2017年)3月、戦争孤児の調査をすすめるグループが開いた研究会です。
1人の戦争孤児が、終戦後の路上での暮らしを証言しました。

小倉勇さん
「駅の待合室・公園・地下道・小学校で寝たこともあります。
みんな近寄って来ないですよ、汚いから。」


 

研究会で証言をした小倉勇さん、85歳です。
マッサージ師として生計をたてています。
終戦直後、路上生活をしている時に緑内障をわずらい、ほとんど目が見えなくなりました。

小倉さんは、福井県敦賀市で生まれました。
母親は工場で働きながらが、女手1つで小倉さんを育ててくれました。
しかし、昭和20年7月、空襲で母親は命を落とします。

小倉勇さん
「用水のおけの中でおふくろが死んでたんですよ、顔半分に穴が(あいて)。
涙も出なかったな。
本当に悲しいときは涙出ません。
ぼーっとして。」

13歳で孤児となった小倉さんは親戚を頼ります。
しかし、優しかったはずの親戚から邪魔もの扱いされるようになります。

小倉勇さん
「たたかれたり、ご飯食べさせてくれなかったとか、そういうことはしょっちゅうあったんですが、親戚にいじめられるというのは、他人にいじめられるよりつらいんですよ。
それが今でも僕に残っているから。」

家を飛び出した小倉さんが行き着いたのが、雨露がしのげる駅でした。
いつ飢え死にしてもおかしくない状況だったといいます。

小倉勇さん
「悪いことをしたいとは思わなかったけど、悪いことをしないと生きていかれないですから。
具体的にいったら泥棒か万引きか。」

全国に12万人 その実態は

小倉さんのように、空襲などで親を亡くした「戦争孤児」。
全国でおよそ12万人にのぼりました。

「お父さんとお母さんは?」

戦争孤児
「亡くなりました。」


 

国は、終戦直後の昭和20年9月、戦争孤児の保護策を打ち出しました。
受け皿とされたのは、個人の家に加えて、施設での集団保護でした。
施設の中には、住環境が劣悪で、虐待が行われる所もあり、こどもたちは脱走するようになります。
町にあふれた孤児たち。
しかし、多くはその過酷な経験から口を閉ざし、実際にどのような生活をしていたのか、その後、どうなったのか、詳しいことはよくわかっていません。

今回、孤児の調査をすすめる、元立教大学教授の浅井春夫さんです。
孤児の生活の実態や、なぜ路上生活におちいる孤児が多かったのか、調査で明らかにしたいと考えています。

戦争孤児たちの戦後史研究会 浅井春夫さん
「責任のない子どもたちにこれだけ迷惑をかけたことに対して、戦後最優先して本当はケアをする福祉を保障していく、教育を保障していくことが必要だと思うのですが、できなかったのはなぜなのかということを検証してみないといけない。」

取材をすすめると、ある施設に子どもたちの様子を知る手がかりが残されていることがわかりました。

この児童養護施設では、終戦直後から孤児の保護に熱心に取り組んできました。
ここに、当時の記録が残されていました。


 

これは、14歳の孤児の記録です。
施設に来るまでに10箇所近くを転々としていました。



 

「ここに疥癬(かいせん)っていうのがありますよね。
これはすごいですよ。 体中、皮膚病で、もうかゆくてかゆくてどうしようもないという。」


 

子どもたちはこの施設を出たあとも、孤児であることを理由に、就職などで苦労をしていたといいます。

強まる大人への怒り

孤児となり、駅で暮らすようになった小倉さんです。
大阪や上野など、全国の駅を転々としながら仲間と盗みや物乞いをして、飢えをしのいできました。
しかしある日、思いがけない事態が起こります。

小倉勇さん
「(昭和)22年の11月に(仲間の)カメちゃんが飛び込み自殺するんですよ。
なんで自分だけがって孤独になるんですよ。
そのときに自殺するんですよ。
僕は何回も経験してるけど、“なんで僕だけが”って。
優しい子だったですけどね。」

路上生活は2年におよびました。
邪魔者扱いした親戚、路上生活者への冷たい視線、仲間の自殺、次第に大人たちへの不信感が強まっていきました。

小倉勇さん
「汚い、怖い、寄りつくな、そういうふうに見られていたんじゃないですか。
ほったらかしだったじゃないんですか。
そりゃ日本も敗戦して、無条件降伏して大変だったと思うけど、あまりにもひどすぎる。
絶対これから俺は、社会にたてついて生きてやると思った。」

“ぬくもり欲しかった”

そんな小倉さんを大きく変えた出来事があります。
昭和23年の秋、小倉さんは京都駅で保護され、施設に入ることになります。

孤児の一時保護施設「伏見寮」。
ここで出会った寮の先生が近くの銭湯につれていってくれたのです。

銭湯は、今も残っていました。
ここで先生が、皮膚病の残る小倉さんの背中を流してくれたのです。



 

小倉勇さん
「この辺でね、先生がごしごしと背中を洗ってくれて、そのときに真面目にならないといかんと思ったな。
背中を触ってくれる人なんかいなかった。
こんな僕を洗ってくれたというのは。」
 

背中を流してくれた黒羽先生。
その後も、何度も声をかけてくれました。
小倉さんは、黒羽先生のアドバイスをもとに盲学校に進学。
マッサージ師となりました。
あの時の出会いがなければ、立ち直れなかったはずだといいます。

小倉勇さん
「みんな飢えていて、何に飢えていたかというと、食べ物に飢えていた。
着る物もなくて寒かったけど、本当に欲しかったのは、ぬくもりです。」

過酷な経験を語ることが、ほとんどなかった孤児たち。
研究会では、100人を目標に聞き取り調査を進めていく予定です。

小倉勇さん
「過去を皆さんに語るのは嫌ですよ。
正直言って胸を張って言える話ではないですから。
だけど僕は絶対戦争をしてほしくない。
2度と僕たちのような戦争孤児のような子どもを作ってほしくない。」
 

埋もれてきた戦争孤児たちの戦後史。
今、少しづつ、光があたり始めています。

戦争孤児たちの戦後史

有馬
「小倉さんの言葉、どれも本当に重かったですよね。
『社会にたてついて生きてやるぞ』と、そこまで子どもに言わせてしまう厳しさがあったんですね。
大人たちは手を差し伸べることができなかった。」

桑子
「ただ、それだけ小倉さんが大人に不信感を持っていても、立ち直るきっかけを作ったのもまた大人だったわけですよね。
まさに、あの先生のぬくもりに救われたということですよね。
孤児たちも今、多くは80代です。
この研究会では、証言をしてくれる孤児の方や、当時の様子について情報を集めています。」

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