2018年3月9日(金)

飯舘村 長泥地区 「帰還困難区域」苦渋の選択

有馬
「東日本大震災と原発事故の発生から、あさってで、7年です。
きょうは、福島の現状と課題について見ていきます。」

桑子
「住民はどれくらいふるさとに戻れているのか。
こちらの赤い部分は、原発事故直後に避難指示が出されたエリアです。
それが、去年春までに、およそ3分の2にあたるエリアの避難指示は解除されました。
ただ、赤の「帰還困難区域」などは、いまだ戻ることができません。
きょうは、こちら去年3月に大部分で避難指示が解除された飯舘村(いいたてむら)に栗原リポーターがいっています。」 

福島の今 住民の帰還は

栗原
「飯舘村の道の駅“までい館”です。
“までい”というのは地元で“心を込めて”という意味で花はその気持ちの表れ。
この道の駅は、避難指示が解除された場所に去年8月にオープンしました。
こちら、飯舘村のみなさんの笑顔の写真です。」

栗原
「再びスタートする町を勇気づけようと、飾られています。
ですが、村に戻りたくても、戻れないという場所もあります。
それが“帰還困難区域”。
飯舘村では、南部の長泥(ながどろ)地区が含まれています。
いま、住民の帰還に向けた動きが具体化してきたが、そこには住民の苦渋の選択がありました。」

住民 苦渋の選択「帰還困難区域」で…

報告:NHK福島 長谷川拓記者
原発事故直後から、飯舘村の中で高い放射線量が計測された長泥地区。
ここで農業を営んでいた鴫原清三(しぎはら・きよみ)さんです。
避難先の福島市から1時間以上かけ、毎週、自宅の様子を見に訪れています。

鴫原清三さん
「住めば住めないことはない。
何一つここからは出していない。」

自宅の周りでは、今も高い放射線量が計測されます。

鴫原清三さん
「14.3、除染しないと。」

震災前は、自宅近くの農業用ハウスでトルコギキョウを育て、出荷していた鴫原さん。
避難先でも、同じ花を育てながら、いつか故郷に戻れることを信じてきました。

鴫原清三さん
「ここに除染してもらえれば、夏場の花くらいはつくりたい。
トルコギキョウ(花言葉)は“希望の花”だからここでつくりたいというのは希望。」

長泥地区が指定された、帰還困難区域。
“将来にわたって居住を制限することを原則”とされ、国は、除染の方針を示していませんでした。
ようやく示されたのはおととし8月。
地元からの要望を受け、適切な範囲で除染するという内容でした。
しかし、“適切な範囲”として当初検討されたエリアは、およそ3ヘクタール。
点在するわずかな面積で、鴫原さんの自宅や農地は入りません。

鴫原清三さん
「避難する前は除染を必ずやる約束で出たのに、裏切られた。」
どちらが悪くて今の状態になったのか、順序を追えばわかるようなものだけれど、今の状態だと、われわれが自分で悪いことしたような感じで、国に頭下げて何とかしてくれって頼んでいるような感じ。」

戻れるエリアを、なんとか広げられないか。
国と協議した菅野典雄(かんの・のりお)村長が住民に説明したのは…。

飯舘村 菅野典雄村長
「苦渋の選択の中で皆さん方の、貴重な高度の判断をしてもらっての、この道筋、これからの復興ではないか。」

“苦渋の選択”の中での“高度の判断”。
それは、国の新たな実証事業を受け入れることで、戻れるエリアを広げるというものでした。
除染で出た土は、双葉町と大熊町の中間貯蔵施設に運ばれることになっています。
この量をなるべく減らしたい国は、放射性物質の濃度が一定の基準を下回った土を、長泥地区に運び…。
その上に、汚染されていない土をかぶせて、農地として利用しようという取り組みです。
土をかぶせれば、除染するのと同じ程度の効果があり、安全性も確保できることを、実証するとしています。

この事業を受け入れれば、わずか3ヘクタールだった戻れるエリアが、186ヘクタールまで拡大。
鴫原さんの自宅と農地も、エリア内に入ることになります。

除染された土を引き受ける、いわば、苦肉の策。
戸惑う住民もいる中、協議を重ねた結果、長泥地区は受け入れることにしました。

鴫原清三さん
「ほかの除染土を入れないと除染してくれない。
そんなバカな話、本当はないが、意地張っていたんではやってもらえないから、しかたない。
情けないけど、何ともしかたがない。」

飯舘村村長に聞く発事故から7年

栗原
「今夜は震災直後から対応にあたってきました、飯舘村の、菅野典雄村長とお伝えしていきます。よろしくお願いいたします。
長泥地区で住民が戻るためには、村長自身も苦渋の選択と話されていたが、やはりこの選択しかなかったということでしょうか。」

飯舘村 菅野典雄村長
「村の中のはずれの地区ですから、復興拠点にはならない。
その長泥地区をどうするか、やはりいろいろな手を使わないと、多くの方の帰村ができなくなる。
そういう中での選択ということになります。」

栗原
「村長ご自身でもむずかしい判断だったと思いますが、原発事故という中で、どんなものだったでしょう?」

飯舘村 菅野典雄村長
「原発事故で避難を経験して、痛いほど思い知らされたのは、放射能の災害は他の災害と全く異質、違うということです。」

栗原
「飯舘村の年表をご覧いただきます。
7年前の3月11日に東日本大震災、そして、原発事故がありました。
その後、飯舘村は町民の全員が避難せざるをえなくなり、翌年に除染が始まったが、6年間、住民が村に住むことができなかった。」

栗原
「去年の3月、避難指示が解除されました。
改めてこの7年という時間は、どんな月日だったでしょう?」

飯舘村 菅野典雄村長
「起きてしまったことはどうしようもないので、しっかり復興に向けて頑張っていかねばと。
毎日初めてのことの連続で、わたし個人としては、あっという間の短い7年でした。」

栗原
「どんなことに向かっての時間でしたか?」

飯舘村 菅野典雄村長
「除染をしっかりして、みなさんが将来、少しでも健康で村に戻ってこれるように、考えてきました。
ひとりひとり考え方が違う、百人百様の放射能災害でしたので、その中で物事を進めていくのは大変なこと。
村民の中でいろいろな意見があるので、妥協点をさがしたり、この方向が良いということを説明しなければならなりませんでした。」

栗原
「村長、今日はありがとうございました。
飯舘村の菅野典雄村長とお届けしました。」

Page Top