2018年9月11日(火)

東日本大震災 あの日の“119番通報”記録

桑子
「こちらは7年前の3月、津波によって大規模な火災が起きた宮城県気仙沼市の様子です。
今日(11日)で、東日本大震災から7年半になります。」

有馬
「今夜お伝えするのは、119番通報の記録。
あの日、気仙沼に何が起きていたのか、消防に寄せられた市民の声から迫ります。」

“119番通報”の記録 あの日 消防隊員たちは

リポート:平山真希(仙台局)

午後2時46分、地震が発生。
宮城県気仙沼市では、震度6弱の揺れを観測しました。
その3分後から、4時間余りに寄せられた、175件の通報記録。
この地域を管轄する消防本部から、私たちが独自に入手しました。

当時の通信指令課の緊迫した様子が、写真に残っていました。
ここで住民からの通報を受けた、及川智彦(おいかわ・ともひこ)さんです。
訓練通りに対応し、出動を指示していきましたが、ひっきりなしにかかってくる通報に、外の状況を確認する余裕はありませんでした。

及川智彦さん
「“宮城県沖地震が来たな、いよいよ来るものが来たな”と覚悟は決めたが、情報が入ってこない状態での地震だったので、“今どういった状況にいるんですか、周囲はどうですか”と。」

通報者がいた場所を示した地図です。
地震発生から46分が過ぎた午後3時32分。
異常な事態を告げる1本の通報が入ります。

“津波で流されて、助けを求めている人がいる。”

この付近で撮影された津波の映像です。
住宅が次々と押し流されていました。

浸水した沿岸部からの救助要請が急増。
しかし、及川さんたちは隊員の安全確保のため、こうした場所に出動させることはできませんでした。

及川智彦さん
「“すぐにそちらに助けに行くことはできない”と、“できるだけ高い場所に上がって自分の身を守って”と伝えることしかできなかった。」

その後、第2波、第3波の津波が押し寄せ、津波に流されている当事者からの通報も増えていきました。

午後3時58分には、携帯電話で男性からの通報がありました。

“海の上を畳で流されている。”

本人からの救助要請でした。

及川智彦さん
「その場までは行けないと伝えて、“ヘリを要請してくれ”と言われた記憶がある。
もちろん慌てている状況だった。
“そちらには行けません”と伝えた。」

通報者からは、厳しい言葉も投げかけられました。

及川智彦さん
「“助けに来られないなんて、死ねと言うんですか”と。
本当にせっぱ詰まった中なので、切実な訴え。」

通報を受け続けて、3時間。
さらに深刻な通報が入ってきました。
午後5時41分。

“火の海になっている。”

午後6時12分。

“タンクが爆発している。”

気仙沼市では、津波で流された重油やガスに引火したとみられる、大規模な火災が発生していました。
火災の通報が集中していたのが、気仙沼湾の北側にある鹿折地区です。
この現場へ消火活動に向かった隊員がいます。
三浦勝郎(みうら・かつろう)さんです。
他の場所で救助を続けたあと、駆けつけたときには、すでに火は地区全体に燃え広がっていたといいます。

三浦勝郎さん
「火の量もすごい。
四方八方、どこから行っても剣山のようなガレキがいっぱいあって近づけない。」

三浦さんが撮影した映像です。
水を確保できず、放水準備が整うまでの間、未曾有の災害の記録を残そうと、自分のカメラでその様子を撮影していました。

津波の情報が無線で届くたびに高台に退避しなければならず、消火活動は困難を極めました。

三浦勝郎さん
「少し高くなっている道路に、いったん退避。
津波が引いたあとにまた消火を始めるという状況で、一進一退を繰り広げていた。」

午後7時7分、175件目の通報を受けたあと、消防本部の回線はダウンし、通信は断絶しました。

消防が出動できたのは、通報全体の半分未満。
管轄する気仙沼市と南三陸町では、2,000人余りが犠牲になりました。

あの日、最初から最後まで通報を受け続けた及川さんです。
助けを求めてきた人がその後どうなったのかは、今も分からないままです。

及川智彦さん
「助けてくれと求めている人に対して、手を差しのべられなかったという歯がゆい思い。
なんともできない無力感というか、感情として時折よみがえってくる。」



有馬
「消防の通信記録の多くは、自治体で廃棄したところが多いと聞きますが、気仙沼では残していたんですね。」

桑子
「将来の検証のために残したということなんですが、この消防本部では震災後、救助には限界があることを、あえて地域の人に伝えているそうです。
そのうえで、声を掛け合いながら早く避難することの大切さを呼びかけたり、訓練を行ったりしているということです。」

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