報告:野中夕加(NHK広島)
アメリカ、ニューヨークの国連本部。
4月末から先月(5月)上旬にかけて、およそ190か国の代表が集い、核軍縮について話し合いました。
濱住治郎さん、73歳。
胎内被爆者です。
今回、被爆者団体を代表して出席しました。
胎内被爆者 濱住治郎さん
「被爆者の苦しみ、病気への不安、子や孫への不安は消えることがありません。」
74年前、広島の町を一瞬で焼き尽くした原爆。
濱住さんの父・正雄さんは、爆心地から500メートルの所にあった職場で被爆し、亡くなったとみられています。
職場の跡地からは、がまぐちの財布とベルトの一部、そして、熱線で溶け落ちた鍵だけが見つかりました。
濱住さんは、原爆投下の翌日から正雄さんを探し回った母親の、おなかの中で被爆しました。
母親から、父・正雄さんのことや、みずからが胎内被爆者であることを伝えられて育った濱住さん。
父親が原爆で亡くなったのと同じ49歳になったとき、突然命を奪われた無念さに、思いをはせるようになったと言います。
胎内被爆者 濱住治郎さん
「私がおなかにいることも、わかっていたと思う。
原爆とわからなくて死んでいったときに、いろんな思いが父の中にもあったんじゃないか。
父と生まれ変わった感じで現在まで生きてきて、父のことを忘れた日はありません。」
濱住さんは直接の被爆体験がなくても、自分には原爆の悲惨さを伝える義務があると考えるようになったのです。
国連の会合では、これまでは、直接の被爆体験がある人が核兵器廃絶を訴えてきました
しかし高齢化が進むなか、今回初めて胎内被爆者である濱住さんがスピーチを行うことになりました。
濱住さんは、あることばを用意していました。
“青い空”
あの日、父親の頭上に広がっていたのは晴れ渡った青い空。
それが、瞬く間にキノコ雲に覆われました。
そこから今に至るまで、青い空を奪う核の脅威は続いたままだと濱住さんは考えました。
「ミスタージロウ・ハマスミ。」
胎内被爆者 濱住治郎さん
「戦争は終わっていません。
なぜなら、いまだに世界に1万4,500発もの核兵器が存在しているからです。
核兵器も戦争もない『青い空』を世界の子どもたちに届けることが、被爆者の使命であり、全世界の大人一人ひとりの使命ではないでしょうか。」
ところが、核保有国からの発言は濱住さんにとって厳しいものでした。
核保有国 アメリカの代表
「単に核兵器を削減したり、なくしたりすればいいというわけではない。
なぜなら安全保障には、さまざまな課題があるからだ。」
濱住さんは議場の外でも働きかけました。
このうち核保有国のイギリスには、父親の写真を見せ、その無念さを訴えました。
胎内被爆者 濱住治郎さん
「原爆は絶対、人間にとって許すことはできません。」
核保有国 イギリスの代表
「核なき世界が実現すれば私たちの未来は、よりよいものとなるだろう。
しかし、残念ながら近道はない。
核はすでに存在するのだ。」
今回の会合では各国の意見が対立し、合意文書すらまとまりませんでした。
濱住さんの訴えが、いかされることはありませんでした。