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2019年6月14日(金)

戦後74年 フィリピン残留日本人 父との再会

高瀬
「戦後フィリピンに取り残された、いわゆる『残留日本人』。
外務省の調査で、これまでに3,800人余りが確認されています。」

和久田
「先月(5月)、その残留日本人の女性が戦後74年たって初めて日本を訪れ、念願だった父親の墓参りを実現しました。」

フィリピン残留日本人 戦後74年 父への思い

リポート : 山口雅史(マニラ支局)・桑原義人(映像取材)

冨里 ゼナイダ・スミコさん、78歳。

父は日本人で、母はフィリピン人。
戦後フィリピンに取り残され、“残留日本人”として生きてきました。

戦前、およそ3万人の日本人が豊かさを求めて移住したフィリピン。

多くの人が現地で家庭を築きました。
その暮らしを一変させたのが、太平洋戦争でした。
激しい戦火の中、家族は離ればなれになり、数多くの子どもがフィリピンに取り残されたのです。

スミコさんも、その1人です。
大切に保管していた出生証明書には、父親が日本人であることが記されています。
父は沖縄から移住したフサト・ヤマトさん。
日本軍に召集されたあと、戦局が悪化する中、命からがら日本に戻りました。

父と生き別れ、4歳のときに母も栄養失調で亡くしたスミコさん。
親戚に引き取られたものの、強い反日感情の中、いじめや迫害に苦しみ続けました。

冨里 ゼナイダ・スミコさん
「どうして私と母を見捨てて行ったのか。
本当に父はひどい人。
私たちがその後どうなったのか、探してくれようともしなかった。
私は神様に言った。
“父を呪ってもいいですか”。
父が私たちにしたことのすべてが許せなかった。」

フィリピンの「残留日本人」は国策で移住が進められた中国とは違い、日本政府による身元確認などの支援はありません。
戦後の混乱が落ち着いても、スミコさんの孤独は募るばかりでした。

2人を再会させたい… 弟の思い

そんなスミコさんに4年前、思いがけない出来事が起きました。

冨里 ゼナイダ・スミコさん
「これがトシオ。
わざわざここまで来てくれた。」

母親違いの弟・利雄さんが「残留日本人」を支援するNPOを通じてスミコさんの存在を知り、会いに来たのです。

すでに他界した父に代わって、利雄さんは「来るのが大変遅くなり、申し訳ない」と頭を下げたと言います。

沖縄に住む、弟の利雄さんです。
父親が亡くなる直前に見せた表情が、ずっと忘れられなかったと言います。

冨里利雄さん
「(父には)罪悪感もあったと思う。
お願いという表情で、もう言葉にはできないけれど、何か自分に対して、何かを言いたいんだろうという表情はしていた。」

父が眠る沖縄にスミコさんを招き、2人を再会させたい。
利雄さんはビザの取得に奔走するとともに、スミコさんの渡航費などをこの4年間、こつこつと貯めてきました。

再会 「戦争さえなければ」

そして先月。
スミコさんの沖縄訪問が実現しました。
スミコさんと利雄さんが向かったのは、沖縄本島から船で30分の津堅島。
父が生まれ育ったふるさとです。
父は、冨里家が代々守ってきた大きな墓に眠っていました。

70年以上の時を経ての親子の再会です。

冨里 ゼナイダ・スミコさん
「ありがとう、ありがとう、ありがとう。
ありがとう、お父さん。
いつもあなたを思っています。
ごめんなさい。」

残留日本人として、過酷な人生を生き抜いてきたスミコさん。
父に伝えた言葉は、命を授けてくれた事への感謝と、恨んだことへの謝罪でした。

冨里利雄さん
「70年という年月がたってしまったが、もう少し早くできれば、もう少し早く再会できていたと思う。」

冨里 ゼナイダ・スミコさん
「胸のつかえが取れた。
もう憎しみや悲しみは感じない。
ひとりぼっちの人生だったけれど、これで私の心に欠けた部分が埋まった。
でも、戦争さえなければ、父と一緒に成長できたのに。」

フィリピン残留日本人 戦後74年 厳しい現実

高瀬
「『戦争さえなければ』というスミコさんの言葉を聞きますと、私たちは今も、戦後という時間を生きているんだな、ということを感じさせられます。」

和久田
「74年という時間の重みを感じますね。
『残留日本人』を支援しているNPOによりますと、スミコさんのように日本を訪れることができる人は極めてまれで、年に1人いるかいないかだそうです。
一方で、父親が誰かいまだにわからない人は、およそ1,000人に上ります。
残留日本人の高齢化が進む中、一刻も早い対応が求められています。」


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