これまでの放送

2020年4月27日(月)

戦後75年 長崎原爆100人の証言

ことし(2020年)は広島と長崎に原爆が投下されてから75年になります。本来であれば4月27日からニューヨークの国連本部で、世界の核軍縮の方向性を議論する5年に1度のNPT=核拡散防止条約の再検討会議が始まる予定でした。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて延期されました。
被爆者はすでに亡くなったり高齢になったりしていて、残された時間は少なくなっています。今回は世界に向けて核廃絶を訴え、運動の先頭に立った2人のリーダーの声に耳を傾けます。
取材:畠山博幸記者(NHK長崎)

この記事のポイント
◆長崎の被爆者運動の原点「長崎原爆青年乙女の会」を立ち上げた2人の若者。
◆被爆者として初めて国連本部で演説 山口仙二さん。
◆“赤い背中の少年”として生きた 谷口稜曄(すみてる)さん。
◆“核廃絶への思い”引き継ぐ活動今も。

長崎被爆者運動の原点に携わった2人の若者

長崎の被爆者運動は、10代半ばに原爆で傷ついた若者が「長崎原爆青年乙女の会」を作ったところから始まりました。会を立ち上げた山口仙二さん(享年82)。そして、谷口稜曄(すみてる)さん(享年88)。被爆者団体の全国組織の代表委員を務めたリーダー2人を輩出しました。NHKは2人の最晩年を記録しました。

被爆者として初めて国連本部で演説 ~山口仙二さん~

原爆が投下されたとき、山口仙二さんは14歳で兵器工場に学徒動員されていました。

山口仙二さん(2008年インタビュー)
「私は光だけしか知らない。音も知らない。光で上半身をやられて気絶してしまっていた。やけどした皮がぶら下がっていた、黒い皮が。残酷と言うか、地獄と言うか。」

山口さんの上半身にケロイドが残りました。核廃絶の運動に取り組むようになった山口さんは、1982年に被爆者として初めて国連本部で訴えました。

山口仙二さんの演説
「核兵器による死と苦しみを、たとえ1人たりとも許してはならないのであります。私たち被爆者は訴えます。命のある限り、私は訴え続けます。ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアウォー、ノーモアヒバクシャ。」

山口さんは何度も海外に出かけて訴え続けましたが、原爆を投下し、その後核大国となったアメリカが大きな壁となって立ちはだかりました。

山口仙二さん
「パールハーバー(真珠湾攻撃)について、心からお詫びを言います。広島と長崎のことを理解していただいて、そして『世界の兵器をなくしましょう』と言うために、みなさんの協力を得たいと思って来たわけです。」

アメリカ人
「私の兄弟は、日本との戦争で死んだ。今は墓の中に眠っている。あの時、核ミサイルがあれば、まだ兄弟は生きているだろう。」

山口仙二さん
「『宣戦布告もせずに奇襲攻撃をしたじゃないか』とか、いろいろ言う人がいる。それはそれできちんと謝ってね、話を戻さないとダメだと思ったんですけど、なかなか難しいことですよ。」

1989年、アメリカのミサイルフリゲート艦が長崎港に入港します。核兵器を搭載している疑いがあるとして、反対していた山口さんたちは怒りを抑えることができず、「何だこんなもの。親が殺されたり、子どもが殺されたり、夫が殺されたりして」と叫びながら、艦長が平和公園で原爆の犠牲者に手向けた花輪を踏みつけました。
2008年に「長崎原爆100人の証言」でインタビューした時、すでに運動の第一線から身を引いていた山口さん。核廃絶の実現については、悲観的な見通しを語りました。

山口仙二さん
「核兵器をなくすということは、僕ら『なくせ』と言うけども、簡単じゃないです。それはもう、伝家の宝刀ですから、核兵器を捨てることはないですよ、将来も。」

Q:山口さんがやり残したことは、ないですか?

山口仙二さん
「ははは。もう体自体も、あんまりちゃんとなっていないからですね、やり残しばっかりです、全部が。」

山口さんは、2013年に82歳で亡くなりました。

“赤い背中の少年”として生きて ~谷口稜曄(すみてる)さん~

山口さんから被爆者団体の代表委員を引き継いだのが谷口稜曄(すみてる)さんです。原爆が投下されたとき、16歳だった谷口さん。自転車で、郵便配達をしていた時に被爆し、背中が真っ赤に焼ける大やけどを負いました。

谷口稜曄(すみてる)さん(2010年インタビュー)
「背中に手を当ててみると、着ていたものが何もなくてね、焼けただれて黒いものがべっとり付いてきた。黒こげになったのが。シャツか肉か分かりませんね。」

谷口さんの入院生活は3年7か月に及びました。退院後も、後遺症に苦しみます。

谷口稜曄(すみてる)さん
「背中を下にして寝ることができないし、どうかしたら当たるし、眠れないからノイローゼになるわけですね。(佐賀県の)波戸岬というところまで行って、普通だったら、『死にたい』と、そのままドボンと行くけれど、いろいろ考えたら、何のために、ここまで生きてきたのかということでね。死んだ人のことを考えて、簡単に死ねないなと思って。」

谷口さんは核廃絶を訴えようと、NPT再検討会議に合わせて2005年、2010年、そして2015年の3回連続でニューヨークを訪れ、「赤い背中」の写真を入れたみずからの名刺を配りました。

名刺を受け取った外国人
「私には7歳の息子がいる。どの子にも、こんな体験はさせたくない。」

「赤い背中」のやけどは完全には治らず、手当てが欠かせませんでした。それでも世界各地を訪れ、核廃絶を訴え続けました。

妻・栄子さん
「行かないとね。見せないと。これが証拠、生き証人。」

谷口稜曄(すみてる)さん(2010年・NPT再検討会議での演説)
「私は核兵器がこの世からなくなるのを見届けなければ、安心して死んでいけません。長崎を最後の被爆地とするため、私を最後の被爆者とするため。核兵器廃絶の声を全世界に。」

2017年、谷口さんたち被爆者の長年の訴えが実ります。
賛成122か国・地域、反対1か国で、核兵器を全面的に禁止する初めての条約、核兵器禁止条約が採択されました。しかし、核保有国のアメリカや、核の傘に依存する日本などは、交渉に参加しませんでした。
この時、がんを患って入院していた谷口さん。最後の力を振り絞ってメッセージを残しました。

谷口稜曄(すみてる)さん
「今後は核兵器を持っていない国が、持っている国を包囲して、1日でも早く核兵器をなくす努力をしてもらいたい。私たち被爆者が、もし1人もいなくなった時に、どんな形になっていくのか、一番怖い。」

このインタビューの1か月余りあと、谷口さんも88歳で亡くなりました。

先人たちの“核廃絶”の思いを後世に

4月4日、NPT再検討会議に合わせて、国連本部を訪れる予定だった被爆者や市民が長崎市の爆心地に集まりました。

谷口さんから被爆者団体の代表委員を引き継いだ田中重光さん(79)は、核兵器禁止条約にすべての国の参加を求める署名活動に、引き続き取り組んでいこうと呼びかけました。

田中重光さん
「目標を大きくオーバーするような、そういう運動を、この1年間、また続けようではありませんか。」

核廃絶を願いながら亡くなった2人の思いを胸に、いまも活動が続けられています。

長崎原爆100人の証言 45人の被爆者の方々を取材して

NHK長崎放送局に勤務する記者の私は、「長崎原爆100人の証言」で45人の取材を担当しました。インタビューの際には「核廃絶は実現していませんが、今後、実現すると考えていますか」と被爆者の方々に失礼を顧みず質問してきました。
その答えから感じたのは、被爆者も核廃絶を訴えれば実現すると楽観的に考えてきたのではなく、本当に実現できるのかと半信半疑になりながらも「2度と自分たちのような被爆者を作ってほしくない」と訴え続けてきたということです。それだけに、3年前の核兵器禁止条約の採択には大きな意義がありましたが、多くの被爆者はその場面を目にすることなく亡くなっていきました。
現在、被爆者団体の代表委員を務める田中さんが被爆したのは4歳のときで、当時の記憶はほとんどありません。このため田中さんたちは谷口さんが残した最後のメッセージに12か国語の字幕を入れ、インターネットで発信する取り組みも行っています。
被爆から75年。亡くなった被爆者が残したメッセージをどう生かしていくかが重要になっています。
取材:畠山博幸記者(NHK長崎)

長崎原爆100人の証言

宮崎米敏さん
「骨も分からんような人間ばかりでしょう。これが原爆ですよ。理屈じゃない。」

片岡ツヨさん
「誰ひとり、この原爆というものに遭わせてはいけない。」

吉田勝二さん
「私たちは、泣いてもわめいても元の体になりませんからね。そうすれば、やはり平和の尊さを後輩に伝えていく責務があるわけです。」

長崎の被爆者たちの声です。

NHK長崎放送局は「長崎原爆100人の証言」と題して、被爆者の思いを10年以上にわたって取材・放送してきました。残された被爆者の証言は私たちの財産です。NHKでは今後も証言の記録を続けます。

※爆心地近くで被爆した方の証言を募集しています。

「原爆の記憶」特設サイト

Page Top