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  2. 「八重の桜」紀行

神奈川県大磯町/京都府京都市

街

1889(明治22)年12月、大学設立に奔走した新島襄は体調を崩し、大磯の旅館で療養していました。しかし病状はさらに悪化。危篤の知らせを聞いた八重も駆けつけます。襄は、「信念と独立心がある学生を圧迫しないように」という同志社の教育を案ずる遺言を伝えました。
 1890(明治23)年1月23日、襄は大学設立の夢半ば、47年の生涯を終えました。八重が襄をしのび詠んだ和歌です。「大磯の岩にくだけるなみの音(ね)のまくらにひゝ(び)く夜半(よわ)そかなしき」。
 襄の棺は京都・若王子(にゃくおうじ)山の墓地へ学生たちの手によって運ばれ、墓石の字は勝海舟が書きました。「島」の字に横棒が一本足りないのは、型にはまらなかった襄の生き方を表したものともいわれています。

新島襄先生終焉之地碑

JR「大磯」下車、徒歩5分

新島襄之墓

市バス「南禅寺・永観堂道」下車、徒歩30分