カメラで、ペンで、ブログで……。甚大な被害に見舞われた街の姿を後世に伝える。彼らを突き動かした使命感とは。
漁港に押し寄せる津波の様子をビデオカメラで撮影した木村さん。避難した高台から、およそ1時間にわたって、撮影し続けた映像には、津波による海の変化が克明に捉えられていた。
とにかく映像に残さねば…その思いでカメラを回し続けた
“俺の生きてるうちに来ないでくれればいいやつが来たですね。怖かったですよ。あれを見たらば。この世のものじゃないと思ったですね”
南三陸新聞の記者だった及川さんは、津波に飲み込まれる町の様子を撮影した。その写真の中には、3階建ての南三陸町の防災庁舎の屋上に避難した人たちの姿も捉えられていた。
防災庁舎では同僚記者も津波に流された
“写真撮りながら、自分でも「ああ、おしまいだ」って。まるで地獄のような光景でしたからね。本当に恐ろしかったです”
宮城県南三陸町伊里前(いさとまえ)地区にも津波が押し寄せた。理髪店を営む及川さんは、津波が町を飲み込み、壊滅させていく様子を、ビデオカメラで記録した。
津波が引いたあとのがれきの中でも撮影をやめなかった
“ああ、だめだ!山に逃げて。上だ上だ。伊里前全滅です”
震災前から絵画展で津波の恐ろしさを訴えてきた学芸員の山内さん。大きく変わり果てた町の様子を後世に残すため、被災現場を歩き、カメラのシャッターを切り始めた。
平成18年に明治三陸大津波の絵を集めた絵画展を開いていた
“三陸沿岸部で生活するってことは、津波が来る。そういう意味では地域の歴史・文化の記録として、今回のことをきちんと残していかないといけない”
小学校教諭の宮崎さんは職員室にいる時、大きな揺れに襲われた。揺れが収まったあと、教頭から指示を受けた彼は、この日から休むことなくノートに震災の記録をとり続けた。
残した記録は新しい防災マニュアルづくりにも生かされた
“「この時、こういう判断をした、こういう状況だったから、こういう判断をした」ということを、客観的に振り返ることができたので、つらい記録になっていますが、本当に大事な記録だと思ってます”
宮城県北部の内陸に位置する栗原市では、震度7を記録する激しい揺れに見舞われた。津田さんは、栗原市の情報があまり報じられていないと、震災発生9日後からブログで状況を伝え始めた。
ブログを開設すると、1日に2,000から3,000ものアクセスが全国からあった
“当初の目的は友人向けだったんですけど、これって実はそうではなくて、もっともっと広い可能性があって、多くの人たちに見てもらえていると実感して、やってよかったと思ってます”