2018年8月9日(木)

被爆者が見た“核を生んだ町”

有馬
「長崎に原爆が投下されて今日(9日)で73年。
しかし、被爆者が訴えてきた『核無き世界』の道筋はいまだ不透明です。
核の保有国と非保有国の認識が大きく隔たっているからです。」

桑子
「今年(2018年)ある被爆者の男性が『核兵器を生んだ町』を訪れました。
そこで見た現実とは。」

長崎 原爆投下から73年 被爆者が見た“核を生んだ町”

長崎の被爆者、森口貢さんです。
森口さんは8歳のときに被爆。
核兵器の恐ろしさを国の内外で語るとともに、50年近くにわたって被爆者の証言を集める活動に携わってきました。

今年3月、森口さんは、アメリカ・ワシントン州にある町、リッチランドを訪れました。
いたるところで目にしたのは、原子力を誇示する「アトミック」の文字。
レストランのメニューにまで。

森口貢さん
「信じられない。」

この町ではかつて、長崎の原爆に使われたプルトニウムが作られ、その後も、核関連の産業が町の発展をけん引。
「原子力の町」とも呼ばれてきました。

リッチランドの飲食店 店員
「私たちはそう呼ばれることを誇りに思っている。」

町の高校を訪ねると…。
校章は、原爆のキノコ雲でした。
原爆を生んだ町の歴史に、多くの住民が「誇り」や「栄光」を見いだしている現実。

地元メディアから取材を受けた森口さんは、こう訴えました。

森口貢さん
「私たちはあのキノコ雲の上ではなく、下にいたんですよ。
下で、どれくらいの子どもたちが…。
いちばん(多く)亡くなったのは子どもなんですよ。
広島も長崎も。」


森口さんには、この訪問の際に果たしたいことがありました。
長崎の原爆のプルトニウムが作られた、ハンフォード核施設を訪れることです。
今では定期的に見学ツアーが開かれ、アメリカの核開発の歴史が紹介されていますが…。

森口貢さん
「長崎の『な』の字もなかった、あの生産工場。
その中で何と言われたかというと、『原爆投下して戦争が終わったから自分たちは死なないですんだ』と。
(説明者に)この原爆で、長崎で多くの人が死んだと言ったら、とたん、目に涙を浮かべた。
すごく印象的でしたね。」


この「原子力の町」には「栄光」とともに、もうひとつの現実があります。
農業を営むこの男性は、核施設から放射性物質が拡散し、長年被害に悩まされてきたと森口さんに説明しました。

農業を営む男性
「(放射性物質は)見えないが、土壌・植物・動物、大人や子どもの体にも取り込まれている。」

この日森口さんは同じ核による被害者として、町の人たちに被爆体験を語りました。

森口貢さん
「これは私の家族です。
最初に姉が…全身がんにおかされて『苦しい、苦しい』と言いながら死んでいきました。
兄は結婚し、赤ちゃんが生まれました。
でも形がありませんでした。
この核をどうするかが、私たち人類に向けられた大きな課題じゃないでしょうか。」

 

森口さんの話を聞いた人
「実際に被爆者の顔を見て話を聞き、ひと事ではないと考える必要がある。
彼らの苦しみを無視してはならない。」

森口貢さん
「みんな一生懸命聞いてくれたんだなと。
ここに来たかいがあったと思いました。
ここからが始まりだという思い。」

そして今日、長崎原爆の日。
式典の後、森口さんは。

森口貢さん
「あのハンフォード核施設でできあがった原爆がやったんだと思った。
今年はそれを思い出して、ちょっと涙が出た。
73年もたったが、核兵器廃絶への本当の、もっと力を込めて一歩を踏み出す。
今年はそうではないかなと、私自身がそう思います。」

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