2019年8月19日(月)

戦争支えた“国防婦人会” 母は…妻は… 女たちの戦争

桑子
「戦争を支えることになってしまった女性たちの本音に迫ります。」

かっぽう着にたすきをかけて、日の丸を振る女性たち。
戦時中、地域の男性が出征する時は、必ず見送りに参加した女性の組織「国防婦人会」です。
女性たちは、命を落とすかもしれない夫や息子たちも笑顔で送り出しました。
「国防婦人会」とはどんな組織だったのか。
その詳細が、今回取材で明らかになりました。

桑子
「今回、新たに発見された、『国防婦人会』の女性たちの生の声や日記。
貴重な資料から浮かび上がったのは、婦人会の活動に前向きに取り組んでいた女性たちがやがて本音を押し殺し、戦争を支えていく姿でした。」

資料発掘「国防婦人会」 全国の主婦が次々と…

リポート:酒井有華子(NHK大阪)

国防婦人会が設立されたのは、満州事変が起きた翌年の1932年。
中国大陸へと渡る兵士に、大阪の主婦たちがお茶をふるまいもてなしたことが始まりでした。

当時、結婚した女性は夫の家に入り、社会で活躍する場は限られていました。
婦人会は、社会進出の舞台として女性たちの心をとらえていったのです。
今回見つかった資料は、70年代に研究者が国防婦人会の女性たちにインタビューした時の記録です。

その1人、片桐ヨシノさん。
活動にのめり込んだ要因に、夫の家でのしゅうとめとの窮屈な関係があったと明かしていました。

片桐ヨシノさん
“おしゅうとめさんには絶対頭があがりません。
おしゅうとめさんにはもう私は絶対服従でございましたから。”

片桐さんは、「お国のため」という大義名分で活動のために外に自由に出ることができたのです。

片桐ヨシノさん
“毎日毎日「あすはよう出ない」と体が疲れて帰ってくるけど、目があくと「やっぱり行ってあげなきゃいかん」と思って行くんですよ。
心の底からの国防婦人会でしょうね。”

「女性の出番が来た」と、高揚した気持ちを語っていた女性もいました。
西松愛子さんです。
今回、西松さんの孫が、兵庫に暮らしていることが分かりました。

西松愛子さんの孫 小谷純さん
「祖母は後ろの…。」

西松愛子さんの孫 西松豊さん
「これですね。」

生前、西松さんは婦人会のことを語ることはほとんどなかったと言います。

西松愛子さんの孫 小谷純さん
「その(国防婦人会)ような活動をしてた祖母がいたのを初めて知った。」

西松さんは、夫が経営していた繊維工場の女工200人を率いて熱心に活動していました。

西松愛子さん
“こんな時節ですから、お国のために女もぐずぐずしておられませんので。
「日本がひっくり返ってつぶれたら大変だ」というような気持ちです。”

社会の役に立てると軍への献金を呼びかける活動に、やりがいを感じていたといいます。

西松愛子さん
“たすきをかければ自由にいける。
私どもはこうしてまちに出ました。
メガホンで、私そんなところへ出たことないから恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがない。
でもやったんです。”

資料発掘「国防婦人会」 ウラに軍の思惑

国防婦人会は、戦争の拡大とともに会員数を急速に伸ばしていきました。
およそ50人ほどで始まった会は、太平洋戦争開戦前までに全国で1,000万人に膨れあがったのです。

女性の熱意に支えられた会。
しかし、その裏には陸軍の思惑があったことも分かってきました。
婦人会に財政支援をするなど、後ろ盾となった石井嘉穂元中将。
その狙いは、戦争による食料不足に女性が不満を持たないようにする、というものでした。

石井嘉穂元中将
“米騒動になったら困る。
本当の問題は女性の思想問題、思想教育だったのです。
男が兵隊に行っても、あとは女子で守れるようにしましょうと、そういう教育を始めた。”

資料発掘「国防婦人会」 戦況悪化の中 変わる女性

やがて女性たちは、「ぜいたくは敵だ」と、女性どうしで国策に従う空気を作り出していきます。
85歳のこの女性は、小学生の時に見た異様な光景を覚えています。

梅本多鶴子さん
「“ほんまに切るよ”。
“長い袖の着物着てきたら、これで切るよ”と。」

国防婦人会の女性が街頭に立ち、派手な着物を着る女性を取り締まっていたのです。

梅本多鶴子さん
「村長さんとか偉い人と同じように、国防婦人会の人も威厳があった。
反対する人は誰もいなかったと思う。」

その後、戦死者が急増、女性たちは夫や息子の死に直面するようになっていきます。
遺族のもとには、婦人会の女性たちが弔問に訪れ、「戦死は名誉」と称賛。
遺族は、涙を流すこともできなくなりました。

女工を率いた西松さん。
1944年、息子の隆次さんが太平洋の小さな島で戦死したと知らされました。
その悲しみを家族にさえ、語ることはありませんでした。
「お国のため」という大義名分で社会に出た女性たち。
しかし、その大義のもとで、女性たちは次第に本音を言えなくなっていったと専門家は指摘します。

戦時下の女性の生き方を研究 滋賀県立大学 京樂真帆子教授
「息子は亡くなって悲しいのは人間の母、それではだめなんだと。
国の母として、息子が死んで国のために死んでよかったと思わなければいけない。」

資料発掘「国防婦人会」 戦死した息子 母の思いは

“耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…。”

そして、迎えた終戦。
息子を失った西松さん。
戦後もその悲しみを語ることなく、84歳で亡くなりました。

西松愛子さんの孫 西松豊さん
「やはりつらい思いをしたんだろうなと思う。
(祖母は)仏壇に水とご飯と必ずあげていた。」

今回の取材で、息子・隆次さんへの思いを日記にひそかに記していたことが分かりました。
終戦から、2年後のことでした。

西松愛子さん
“ニッと笑った隆ちゃんの写真。
でもまだ、亡くなったのが本当とは思えません。
どうか間違いであってほしい。
どうか隆ちゃん、もう一度帰って母ちゃんと言って下さい。”

資料発掘“国防婦人会”

桑子
「子どもを亡くしたことに、涙も流せなくなってしまう。
この異様な空気を知る女性は、私たちの取材に対して、『手遅れになる前に、おかしいと思ったことはおかしいと言うことが大切だ』と語ってくださいました。
その言葉、教訓として受けとめないといけない、と感じます。」

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