リポート:酒井有華子(NHK大阪)
国防婦人会が設立されたのは、満州事変が起きた翌年の1932年。
中国大陸へと渡る兵士に、大阪の主婦たちがお茶をふるまいもてなしたことが始まりでした。
当時、結婚した女性は夫の家に入り、社会で活躍する場は限られていました。
婦人会は、社会進出の舞台として女性たちの心をとらえていったのです。
今回見つかった資料は、70年代に研究者が国防婦人会の女性たちにインタビューした時の記録です。
その1人、片桐ヨシノさん。
活動にのめり込んだ要因に、夫の家でのしゅうとめとの窮屈な関係があったと明かしていました。
片桐ヨシノさん
“おしゅうとめさんには絶対頭があがりません。
おしゅうとめさんにはもう私は絶対服従でございましたから。”
片桐さんは、「お国のため」という大義名分で活動のために外に自由に出ることができたのです。
片桐ヨシノさん
“毎日毎日「あすはよう出ない」と体が疲れて帰ってくるけど、目があくと「やっぱり行ってあげなきゃいかん」と思って行くんですよ。
心の底からの国防婦人会でしょうね。”
「女性の出番が来た」と、高揚した気持ちを語っていた女性もいました。
西松愛子さんです。
今回、西松さんの孫が、兵庫に暮らしていることが分かりました。
西松愛子さんの孫 小谷純さん
「祖母は後ろの…。」
西松愛子さんの孫 西松豊さん
「これですね。」
生前、西松さんは婦人会のことを語ることはほとんどなかったと言います。
西松愛子さんの孫 小谷純さん
「その(国防婦人会)ような活動をしてた祖母がいたのを初めて知った。」
西松さんは、夫が経営していた繊維工場の女工200人を率いて熱心に活動していました。
西松愛子さん
“こんな時節ですから、お国のために女もぐずぐずしておられませんので。
「日本がひっくり返ってつぶれたら大変だ」というような気持ちです。”
社会の役に立てると軍への献金を呼びかける活動に、やりがいを感じていたといいます。
西松愛子さん
“たすきをかければ自由にいける。
私どもはこうしてまちに出ました。
メガホンで、私そんなところへ出たことないから恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがない。
でもやったんです。”