2019年9月13日(金)

樹木希林さん あれから1年

桑子
「亡くなってからまもなく一年です。」

去年(2018年)9月、75年の生涯を全うした、樹木希林さん。
亡くなってからも関連本が次々と出版されベストセラーとなるなど、その生き方や言葉は今も多くの人をひきつけています。

希林さんの娘の内田也哉子さん。
この1年、母のことを考え続けてきました。

内田也哉子さん
「母は、自分にとってどういうものだったのかが徐々に徐々に出て、輪郭が浮かび上がってきて。
本当にすごく濃い1年だった。」

樹木希林さん あれから1年 問い続けた涙の意味は…

有馬
「あさって、9月15日で樹木希林さんが亡くなって1年になります。」

桑子
「最近ようやく母の輪郭が浮かび上がってきたと語った、娘の内田也哉子さん。
この1年、希林さんが亡くなる直前に見せた涙の意味を問い続けてきました。」

娘・也哉子さんの1年 樹木希林さん 涙の意味は

取材:豊島あかり

内田也哉子さん
「はいどうも、ようこそ。」

希林さんの一人娘・内田也哉子さんです。

内田也哉子さん
「母の暮らしていたダイニングテーブルと、書斎と居間。
わりとコンパクトに。」

希林さんが最期の時を過ごした自宅。
ここに来るといつも、母の姿がよみがえると言います。

内田也哉子さん
「ここによく座って、本をたくさん読んでましたね。」

お気に入りだったいすは傷むたびに自分で直し、何十年も愛用していました。
ものを大切にし、質素に生きることを貫いてきた希林さん。

しかし、幼いころの也哉子さんにとっては厳しすぎる母でもありました。

内田也哉子さん
「おもちゃを買ってもらったことがないし、お弁当も学校に行けばいろんな色とりどりのお弁当がある中で、私はぱっと(弁当箱を)開けると全体に茶色くて、梅干し、せいぜい赤いぐらいで。
やっぱり子どもってなるべくお友達ともなじみたいっていう欲求があると思うので、そう思うと母のやり方は酷でした。」

当時、希林さんは自らの育児方針について、こう語っていました。

樹木希林さん(当時43歳)
「子ども(也哉子さん)なんかでも、“人がほしいと思うものをほしがるな”って言っている。
争いになるから。
戦争もだいたいそこから始まるから。
人が見向きもしない中から何か見つけて、そこから自分の“いいな”と思うものにつくり変えていく、そういう訓練をするように言ってある。」

「人と比べず、自分らしく生きなさい。」
也哉子さんは母にそう言われるほど、人と比べてしまう自分を意識し、母の背中を遠く感じてきました。

内田也哉子さん
「人と比べることは生きる上で邪魔だ、ぐらいの、ある種ちょっと強気な感じで生きてきた。
私も時々まねしたいなとも思うが、なかなかやっぱり人と比べないっていうことは難しい。
手が届きそうでずっと届かない人だった。」

強気だった母の涙を也哉子さんが目の当たりにしたのは、希林さんが亡くなる2週間前のことでした。

内田也哉子さん
「病室の窓の外に向かって、母がぽつんと1人で、『死なないでね、お願いよ』『命がもったいないからね』って、すごく小さな声で、まるで何か祈るように窓の外につぶやいていた。」

その日は9月1日。
一年を通して子どもの自殺が最も多いとされる日でした。

内田也哉子さん
「『きょうは9月1日だから、全国の子どもたちが学校に行けない、いじめだったりいろんな理由で学校に行きたくなくなってしまった子どもたちが自殺してしまう、一番自殺率の高い日なんだよ』って、初めてそれを母から聞いた。」

そして、希林さんが亡くなった数日後。
ある編集者から思いがけないものが届きました。
希林さんが講演会で話した言葉やインタビュー記事など、すべて、不登校や生きづらさに悩む若い人たちに向けたメッセージでした。

“まわりと比べない。”

記されていたのは、母にいつも言い聞かされてきた言葉。
也哉子さんはハッとさせられました。

内田也哉子さん
「すごく母らしいなと思った。
立ち止まったり思い悩んでいる人がいたら、何とか自分でも少しは足しになることはできないかと。
自分(私自身)も3人の子どもを育てている母親として、こんな苦しみを日本の子どもたちが背負っていることも知らなかった自分を、とても恥ずかしく思った。」

希林さんの言葉 受けとめた若者たち

也哉子さんの知らないところで希林さんが続けていた、不登校の人たちへの支援活動。
救われたという若者は少なくありません。
高校生の時に不登校になったこの20代の男性は、繰り返し聞いた希林さんの言葉が引きこもりから抜け出すきっかけになったといいます。

それは、希林さんが自らの病気について語った言葉でした。

樹木希林さん取材音声(2014年)
「“なんていう病気なんですか?”と言ったら、“これが全身がんですよ”。
この病気をおもしろがる。
成熟していくため。
“ああここへ来たか”という感じで受けとると、なんてことないわよ。
なんでも人と違っているときに“ダメ”としない。
だけどそこが魅力にするようにしていく。」

男性
「がんの末期ですよね。
つらさを一切感じさせない感じでしゃべる。
樹木さんの話を聞いたときに、すごい自分の人生を自由に生きてるなって感じがして。
自分も樹木さんみたいに生きていたら、実は楽しいんじゃないかと思って。」

一方、也哉子さんはその後、自ら不登校の経験者や支援者と対話を重ね、今月(9月)、その内容を本にまとめました。

内田也哉子さん
「(引きこもりの時間は)決して無駄じゃない。
むしろのちに自分の財産にもなるし、それが社会の財産にもなる。
残念ながら、闇の途中の段階で自殺をしてしまう子どもが多い。
私のこれからの一つの課題として、バトン、母からのバトンということで、走ることはできないかもしれないけど、歩んでいけたらいいな。」

取材の最後に也哉子さんが見せてくれたのは、希林さんが亡くなった翌日に届いた、母からのメッセージでした。

内田也哉子さん
「よれよれの字で。
寝ながら書いてるからあれですけど、“ばあばは幸せです”って。」

内田也哉子さん
「きっと母も、私はもう死んだんだし、あなたはまだ生きてるんだから、自分の人生に戻りなさい、と言ってるんじゃないか。
そういうメッセージとして受けとって、入り口にいま立てたっていうだけなんですけども。
ここから先、また私が何ができるかっていうのを、考えていきたいなとは思ってます。」

樹木希林さん 最後の願い 思いを受け継いで

桑子
「也哉子さんが一歩踏み出せるように、最後まで希林さんらしさを貫かれていたんですね。」

有馬
「也哉子さん、1年がたつ最近になってようやく、お母さんの存在、輪郭が浮かび上がってきた、そんな表現をされていました。
お母さんの涙の意味、言葉をかみしめるのにそのぐらい時間は必要だってことですよね。」

桑子
「そしてその言葉を、今度は也哉子さんがわたしたちに投げかけようとされている。
私たちはそれをしっかり受け止めたいですよね。」

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